梟の啼く夜
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弐 大男は、山奥にある洞穴に少女を案内した。 そこには、様々な生活の道具が置かれていた。水瓶や狩りに使うであろう弓矢や槍。いくつかの甕には、木の実が山のように盛られていた。 どうやら、男はここで生活しているようだった。 地面に敷かれた獣の皮の上に速男を横にすると、丁寧に処置を始めた。 火をおこし、炙った刃物を速男の背中に突き立て、矢を取り除く。 速男は意識を失っているので痛みを感じていないようだったが、それを見ていた少女はあまりの情景に思わず目を逸らしてしまった。 固く目を瞑ったまま、処置が終わるのを待つ。 しばらくして、肩を叩かれた。 目を開けると、笑みを浮かべている男と、傷口に丁寧に布を巻かれた速男の姿があった。 「……これで、速男は大丈夫?」 恐る恐る少女が尋ねると、男は、器に入っているすり潰された葉を指し、速男の背中の上で、撫でるような仕草をしてみせた。 そして、少女に向き直ると、両手を胸に当てて溜息をついてみせたのだった。 「薬を……塗ったから……大丈夫?」 そう言うと、男は大きく首を縦に振った。 少女は、速男の枕元に近づいた。苦しそうではあるが、規則的な寝息が聞こえてきたことに安堵した。 この男を、信頼しても大丈夫なようだ。 男はどうやら口が利けないようだった。だが、こちらの言っていることは理解できるらしい。 炎を間に男と向かい合うように、少女は座った。 炎の下で見ると、男は赤みがかった髪に、青い瞳をしていた。 少女は、男の顔をまじまじと見つめた。 ―――これが、土蜘蛛。 けれど、想像していた土蜘蛛とは全く違っていた。 少女が話しに聞いていた土蜘蛛とは、手足が恐ろしいほどに長く、身体は巨大で、人の血で赤く染まった髪と、冷たい瞳をした恐ろしい怪物だった。 口からは牙が生えており、爪は人を突き殺せるほどに長いと聞いたこともあった。 けれど、目の前にいる男は、確かに赤い髪はしているが、単に人よりも長い手足と大きな身体を持つだけの人間だった。 しかも、少女を窮地から救ってくれたのだ。大王の命で、少女を殺そうとしていた男たちの手から、救ってくれた。 少女は、居住まいを正すと言った。 「危ないところを救っていただき、感謝しています。私は、市辺押磐別皇子が娘、飯豊。あなたは?」 すると、男は寂しそうに笑った。そして頭を振る。 「名が、無いの?」 また、頭を振る。男は宙に手を彷徨わせようとした。だが、ぴたりと手を止めた。 手では表現できないと思ったのだろうか、その辺にあった棒を掴むと、地面に何かを描き始めた。 少女―――飯豊は、それを見たことがあった。 かつて、父親にせがみ、森で捕まえたそれを邸に連れてきてもらった。 自分と同じ名を持つものが、どんな姿をしているのか、確かめたかったのだ。 トヨと名をつけた梟は、今も森のどこかで生きているのだろうか。 「……梟?あなたの名は、梟なの?」 驚きで目を見開いて尋ねる飯豊に、しかし男は頭を振った。 そして、地面に描いた絵を棒で指す。 「……梟、でしょ?」 それに対しても、男は頭を振った。飯豊は首を傾げる。男が何を伝えたいのか分からない。 男は、何度も棒で地面に描かれた絵を指し示す。男の言わんとしていることが汲み取れ無い飯豊に対して、徐々に男の顔は曇っていく。 それを見て、飯豊は胸が苦しくなるのを感じた。 理解してあげたい。けれど。 飯豊は、頭を振った。 「ごめんなさい。あなたの名が私には分からない」 その言葉に、男の顔が更に曇っていく。それを見た飯豊は、すぐさま次の言葉を続けた。 「けれど、あなたをロウと呼んではいけない?梟の、ロウよ。あなたの本当の名は分からないけれど、少しでも近い名ではない?」 伺うように、男を見つめた。 すると、男の顔に笑みが広がっていった。男は、嬉しそうに大きく首を縦に振る。 「ロウと、呼んで良いのね?……そうね、字はきっとこうだわ」 呂宇、と、飯豊は地面に棒で描く。 それを見て、男は満面の笑みを浮かべた。 その笑顔を見て、飯豊は胸の中の何かが軽くなるのを感じた。ずっと胸の奥底に痞えていた黒く重たいものが、ゆっくりと溶けていくようだった。 代わりに、胸の中に広がっていくのは温かい何かだった。 それが何であるのかは飯豊には分からない。けれど、その温かい何かは、確かに飯豊の心を軽くしていくのだった。 だが、男の嬉しそうな笑みは、次の瞬間心配そうな表情に変化していた。 どうしたのかと聞こうとした飯豊は、その時初めて自分の頬を涙が伝っていくのを感じた。 けれど、何故涙が零れるのかは分からなかった。 父の死も、母の死も、弟たちとの別れでさえも、受け入れたと思っていた。 せめて、弟たちだけでも助けたかった。だから、別れを選んだ。それは、自分の意思だ。 それを悲しんでいるのだとすれば、それは自分の選択を後悔したことになる。 後悔はしていない。弟たちを救う道はそれしか無かった。 それなのに、何故涙が零れるのか。 飯豊は不思議でならなかった。 泣く必要などどこにも無いというのに、何故自分は泣いているのか。 そう思っても、溢れ出す涙が止まることは無い。 すると、男は甕から小さな木の実をいくつか持ってくると、飯豊に差し出した。 飯豊は首を傾げる。すると、男はそれを口に入れろという仕草をしてみせた。 飯豊はそれを恐る恐る口に入れた。 噛むと、ゆっくりと甘い味が口の中に広がっていった。 「……美味しい」 飯豊がそう呟いて微笑すると、男は安心したのか、再び満面の笑みを浮かべた。 その笑みを見た飯豊の胸にまた、温かい何かがゆっくりと広がっていった。 速男は、その後三日ほどで回復し、二人は山を下りて近くの邸に戻った。 山を下りてしばらくは、追っ手を気にする生活を送っていたが、女の飯豊には力が無いと大長谷は判断したようで、それ以上追っ手が来ることは無かった。 都の邸に戻らなかったことも、原因の一つであるようだった。 それ以来、飯豊は都とは関わり合いの無い世界で生活をしていた。それは決して不便では無く、飯豊にとっては幸福な時間であった。 大長谷が自分の父親以外にも他の皇子たちを惨殺しているという話を耳に入れることも無かったし、また、好きな時に葛城山へ行き、呂宇に会うことが出来た。もう二度と都へ行くことの出来ない哀れな皇女なのだからと、誰も咎める者は無かった。 時折、速男が困ったような顔で溜息をついてはいたが。 次第に、飯豊は自分の胸に広がる温かい物が何であるのかに気づき始めた。 呂宇に会う度に、呂宇の笑顔を見る度に、それは大きくなっていった。 それは、全てを失ったあの夜に得た、ただ一つのものだった。 けれど、その何かに気づき始めてからというもの、呂宇の笑顔を見る度に、飯豊の胸には温かいものと同時に、言いようの無い切なさが広がるのだった。 |
2005.09.26 up
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