夕焼





今年に入ってから、教室は居心地の悪いものになった。
去年までは休み時間に馬鹿騒ぎをしていた友人が、今年からは休み時間にも教科書から目を離そうとしない。
休み時間だというのに、教室には鉛筆を走らせる音が響く。授業中と変わらない光景。
最初は一緒にふざけていた友人も、気づいたら「そっちの世界」の人間になっていた。
休み時間はある意味地獄。クラスメイトの冷たい視線が突き刺さる。
だから、休み時間は一人そっと教室を抜け出す。
屋上に行って、思いっきり深呼吸する。
教室は息が詰まる。
呼吸することもままならない。
いつから、僕らはあんな狭い箱に押し込められてしまったのだろう。
無理やりに。
自分のペースで設定していたはずのランニングマシンの、設定を勝手に速いものに変えられてしまったような。
他人の制服を着せられているような。
度の合わない眼鏡をかけているような。
そんな居心地の悪さを感じているのに。
僕らは、あの箱の中から抜け出すことは出来ない。
抜け出すことがまるで罪悪であるかのように、僕らは教え込まれてしまっている。


                         *


通学路には河原があって、僕は川面に光が反射しているのを見ながら帰るのが好きだ。
でも、周りの人間は参考書に目を通したまま、そんな綺麗な風景を見ようともしないで足早に通り過ぎていく。
僕は溜息を一つつくと、土手に腰を下ろした。
ぼーっと、川面を眺める。
急いで歩く友人たち。
休み時間も教科書から目を離そうとしない友人たち。
そんな友人を見る時、僕の胸には何とも言いようのない焦燥感が生まれる。
僕には、勉強する意味が見出せない。僕には夢が無いから。
やりたいことが見えないから、何かをしようという気が起きない。
あの教室にいると居心地が悪い理由は、多分そこにもある。
僕はそのまま草むらに寝転がった。視界一面が空になる。
水色から橙色にゆっくりと染まりゆく空。
こんな風に、気づいたら僕も別なものに変わっていればいいのに。
あの教室にいる間は、僕は自分がこの世に一人だけであるかのような錯覚に陥る。
お互いがお互いを見ていない。誰も相手を気にしない。
誰も「僕」を気にしない。
今ここで目を閉じたら、次に目を開いた時に世界はなくなっているんじゃないだろうか。
僕だけがここにいるんじゃないだろうか。
そう思った時だ。
腹部に思いっきり衝撃を感じた。
「ぐふっ」
思いも寄らなかった衝撃に、僕は変な呻き声を上げると顔を起こした。
そして、それを見た。
もこもことした茶色の物体。ぱたぱたと揺れているのは、尻尾?
―――犬、だ。
茶色い犬が、つぶらな瞳を僕の方に向けて嬉しそうに尻尾を振っていた。
「重たいよ、お前」
苦笑まじりにそう呟いて、上半身を起こす。犬は、ずるりと僕の腹から落ちた。
重たいわけだ。犬は、幼稚園児は軽く背中に乗せられそうな大きさだった。
一般で言う、大型犬というやつだろう。僕は犬には詳しくないので、その種類までは分からないけれど。
犬は、舌を出して嬉しそうに僕の顔に近づいてくる。
「やめろって」
犬の生温かい舌が僕の顔をべろりと舐めた。くすぐったくて、顔が綻んだ。
仕返しとばかりに、犬の額を撫でてやる。毛が逆立つぐらいに力強く。
くすぐったいのか、犬は目を細めてみせた。尻尾がさっきよりも大きく揺れている。
気持ち良いのか、犬はだんだんと地面に近づいていく。終いには、腹を見せてごろんと横になってしまった。
「お前、警戒心無さすぎじゃないのか?」
こんなに他人に懐く犬なんて初めてだ。しかも、腹まで見せるなんて。
僕は犬の腹を撫でてやった。温かくて、毛がふわふわとしていて気持ちが良い。
毛並みが良いということは、飼い犬だろうか。
犬は、僕が腹を撫でる度に尻尾を振った。
僕は何だか嬉しくなって、何度も犬の腹を撫でた。犬は何度も尻尾を振った。
「なあ。焦らされえいるような気がしてるのは、僕だけかな。どうしていいか分からないのは、僕だけかな」
犬の腹を撫でながら、僕は呟いていた。
犬が答えるわけが無いのは分かっている。でも、答えが欲しいわけではなかった。
ただ、吐き出したかったのかもしれない。
そんな僕を、犬はつぶらな瞳で見つめる。
小さな黒い瞳が、深い悲しみを湛えているように見えたのは、僕の錯覚だろうか。
犬は起き上がると、僕の鞄を咥えた。そして、そのまま勢い良く走り出してしまった。
「っおい!!」
僕は慌てて立ち上がった。立ち上がる時に少しよろけた。
勢い良く土手を駆け下りる。犬は、鞄を咥えたまま猶も逃走中だ。
四本の足で走る犬と、二本足で走る僕。
しかも僕は、運動部に所属したことが一度もない。勝敗は見えている。
でも、僕は走った。
走っている内になんだかわけもわからずおかしくなって、笑いたい衝動に駆られた。
おかしくておかしくて、僕は走ることもままならずに、その場にしゃがみ込んで笑い出してしまった。
最初は、くくくっと。
次に、はははっ。次には、わははははになり、最後には声も出せずに笑った。
ひーひー言っている僕の脇に、いつのまにか犬が寄り添って座っていた。
鞄は、僕の前に置かれていた。
もう飽きたのか、犬は何事も無かったかのように、夕陽を浴びてきらきらと輝く川面を見つめている。見つめる犬の瞳も橙色に染まっていた。
僕の呼吸が落ち着くまで、犬はただじっと川を見つめていた。ただ、じっと。


                         *


気づけば、いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。
西の空だけがまだ橙色を残している。それが紺に変わりゆくまであと少し。
夜になるまでもう少し。
僕は立ち上がって大きく伸びをすると、犬の頭を最初と同じように、毛が逆立つくらいに強く撫でた。
そして、尻尾を振る犬に、
「じゃあな」
と、手を振ると土手を登り始めた。
土手を登り切ったところで、僕は初めてこんなにも笑ったのが久しぶりだったことに気がついた。
そしてこんなに走ったのも。
慌てて振り返るが、そこにはもう犬の姿はなかった。
僕は鞄を持ち直すと、星の出始めた空の下を、どこか軽くなった気持ちで歩き始めた。

<了>




素材:「Little Eden」





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