雄略天皇異聞
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その時、彼はまだ童子だった。 自分一人の力では何も出来ない無力な童子だった。 愛する人が何故涙を流しているのか分からなかった。 「姉上、何故泣いておられるのですか?」 慰めたくてそっと肩に手を置くと、女性は伏せていた顔を上げた。 涙が頬を伝い、後から後から溢れてくる。 涙を流す姿さえ美しいと、その時彼は思った。 皆が、衣から美しさが透けて見えるようだと言ったのがよく分かる。 じっと、女性の涙に見入る彼を、女性は何も言わずに抱きしめた。 強く、ただ強く抱きしめた。 軽大郎女 が、伊予に流される軽太子 の後を追って、道中で共に自害したと彼が聞かされたのは、それからしばらくしてのことだった。 「皇子様!皇子さま!」 「その様な格好で外にお出になっては!!」 女官たちはぼさぼさの髪の少年の後を追って、館中をうろうろとしている。 少年はどかどかと足音を響かせながら、女官から逃げるように館内を歩いていた。 「うるさいな。構わないだろう。誰に見せるのでもないのだから」 そう言うと、少年は肩まである髪を手のひらで弾いた。 「せめて髪に櫛を通させて下さいませんか」 女官はそう懇願するが、少年は聞く耳を持たない。 「うるさいうるさい!俺が良いと言ってるのだから良いのだ!放っておいてくれ!」 「お待ち下さい!」 女官の静止する声を振り切って、少年は館から勢いよく飛び出して行った。 「皇子様!!」 女官の怒声がそこら中に響き渡った。 女官の煩わしさから逃れた少年は、頭の後ろで両手を組んで、気分良さそうに歩いている。 女官の心配など、どこ吹く風だ。 「大長谷」 通り過ぎようとした館の中から声がした。 見上げた先には、ぼさぼさ頭の大長谷とは正反対に、きちんと髪を結い上げた少年が立っていた。 大長谷は、満面の笑みを浮かべる。 「なんだ、目弱か」 「女官が君を呼ぶ声が、ここまで聞こえていたよ?」 そう言う目弱の目は、大長谷の方を見てはいなかった。目弱は、その名の通り視力が悪いのだ。 それは生まれつきなのだが、中には穴穂大王が大日下王を讒言によって殺したことによる呪いではないかという者もいる。 穴穂大王は讒言によって大日下王を殺したことを後悔し、大日下王の妻で大王の姉でもある長田大郎女とその子である目弱を引き取ったのだが、中にはそれを邪な目で見る者もいた。 曰く、「穴穂大王は、同母姉である長田大郎女の美しさに目が眩んで大日下王を殺して長田大郎女を自分のものにしたのだ」と。 また、「同母の姉と弟が通じて生まれたから、目弱王は目が悪いのだ」と言う者もいる。 言いたい者には言わせておけば良い、と穴穂大王は言うが、大長谷は、そう言う者がいるということは一部真実を含むのではないか、と疑っていた。 だが、目弱にそれを聞くことは出来ない。 目弱は、大長谷と唯一歳の近い皇子であり、大長谷の理解者でもあったからだ。 そして何より、目弱は自分の父親が穴穂大王によって殺されたのだという事実を、知らないのだった。 「相変わらずお前は耳が良いな」 「僕の耳が悪くても、ここまで聞こえていたと思うけど?」 くすり、と目弱は笑う。 この二人は、格好だけではなく性格も正反対である。 大長谷の方が五つほど歳が上なのだが、目弱と一緒にいると、いつも目弱の方が年上に見られる。 落ち着いた雰囲気の目弱と、喧しいくらいに元気な大長谷。 性格は正反対だが、この二人は意外と気は合うのだった。 「大体だなあ、女官たち(あいつら)はいっつも鬱陶しいんだ。俺の髪がぼさぼさだろうが、結い上げてなかろうがどうでも良いと思わないか?」 「一応、大長谷は前大王の第五皇子だからね。いろいろと気を使わなくちゃいけないんじゃないの」 「それを言ったらお前だってあんまり変わりはないだろ」 「だから僕はいつもきちんと髪を結って、身綺麗にしてるじゃないか」 溜息と共に目弱はそう吐き出した。 「何だ、お前もあいつらにはうんざりしてたのか」 目弱が同じ気持ちでいたことに、大長谷は嬉しくなった。 だが、そんな大長谷の気持ちを挫く人物が現れた。 「目弱、調子はどうだ?……大長谷、また女官たちを怒らせていたな?」 笑い声交じりに館の中からそう言ったのは、穴穂大王である。大長谷にとっては兄にあたり、目弱にとっては叔父にあたる人物だ。 大長谷は、自分の気持ちが急速に冷えていくのを感じた。 (いつも、いつもそうだ。この男は俺の楽しい気分を奪っていく) 醒めた目で、大長谷は大王を見つめる。 目のほとんど見えていない目弱でさえ、大長谷のその心の動きが分かると言うのに、大王は全く気づいていなかった。 「大長谷、あまり女官たちに心配をかけるものではないよ」 「申し訳ありません」 「ああ、怒っているわけではないんだ。ただ、気をつけなさい、とね」 大王は笑みを浮かべて言うが、大長谷にはその笑みさえ白々しいものに写った。 「大王の仰る通りに。以後気をつけます」 大長谷の慇懃さに、大王は苦笑を浮かべた。 「いつも言っているだろう。お前は私の弟なのだから、普段は大王などとは呼ばなくてもいいのだと。目弱は、“叔父上”と呼んでくれるぞ?」 その言葉に、大長谷は大声で、「目弱の父親を殺したくせに!!」と叫び出したくなったが、辛うじて堪えた。 そして、押し殺した声で、 「いえ、私たちから大王に対して礼を示さねば、臣下が大王に礼を示しませんので」 そう言って一礼すると、その場から勢い良く駆け出した。 駆けながら後ろを振り返り、目弱に向かって叫んだ。 「目弱、後でまた行くからな!」 目弱が返事の代わりに大きく手を振るのを確認すると、まっすぐに前を見てひたすら走った。 大長谷が、実の兄でありながら穴穂大王を嫌うのには理由があった。 一つは、目弱の父・大日下王を殺しておきながら、何食わぬ顔で目弱に話しかけていること。目弱は何も知らないのに。 二つ目は―――。 (姉上……!あいつは姉上を死に追いやっただけでは飽き足らず、目弱の父さえも死に追いやった!!) 大長谷は、下唇を噛み締めた。 いつも懐に忍ばせている玉飾りを取り出して、愛しそうに見つめる。 (姉上。俺は、どうしても穴穂を許せない。姉上と兄上を死に追いやった穴穂を、許すことなんて出来ない!) 大長谷は、玉飾りを見つめながら、そう思った。 大長谷が姉と呼ぶのはただ一人、軽大郎女だけである。 大長谷にとって、軽大郎女は特別な存在だった。同母の兄弟の中でただ一人、軽大郎女だけが大長谷に優しかった。 母のような愛情を注いでくれた。他の兄弟は何故だか大長谷にだけ冷たかった。 それを悲しいと思った時もあったが、軽大郎女の存在がその悲しさを忘れさせてくれた。 軽大郎女がいればそれで良かった。それだけで幸せだった。 だが、その幸せを奪った者がいた。それが穴穂だ。 穴穂は、軽大郎女と軽太子が同母の兄妹でありながら契っているという偽りを大王に進言し、二人を死に追いやった。 軽太子は容貌も美しく、文武に優れた人物だった。彼こそ王位を継ぐに相応しいと人々に噂されるくらいだったのだ。 だが、王位を欲した穴穂は、他の二人の皇子と共に、軽太子を陥れた。 同母の兄妹と契っているという噂を流された軽太子は、その責任を取らされて、伊予に流されることになった。 それを悲しんだのは、何より軽太子と仲の良かった軽大郎女である。 軽大郎女は、兄弟に陥れられた兄を救うべく、伊予へ向かう軽太子の後を追ったのだ。 しかし、人々の噂に耐え切れずに、その場で自害してしまった。 大長谷は、そう聞いている。だが、信じられなかった。 二人は自害したのではなく、穴穂によって殺されたのだと、大長谷はそう思っていた。 だから、大長谷は穴穂大王を許すことは出来ない。まして、兄と慕うなんて以ての外である。 大長谷は、軽大郎女から伊予に発つ際に渡された玉飾りを握り締め、思う。 (姉上、いつか必ずこの手で仇を討ってみせます!いつか必ず!!) それはまるで呪いのように、大長谷の心を占め続けていた。 大長谷は、約束どおり目弱の館へと寄ってから自分の館へと帰るつもりだった。 今朝、目弱と話していた所の柱をよじ登って、目弱の館へと入る。 女官に見つかったら、また口うるさく注意されることは間違いない。 「目弱?来たぞ」 そう大声をあげながら、目弱を探す。 だが、いつもいる場所に目弱はいなかった。 寝室だろうかと、そちらに向かう。 「目弱?」 そう声をかけるが、目弱はいない。 変だな、と首を傾げた時に、それが視界に入ってきた。 床に広がっている、赤黒い染み。そして、その横には、胸に太刀を刺された穴穂大王が倒れていたのだった。 その赤黒い染みは、穴穂大王の胸から滲み出ているものだった。 恐る恐る、大長谷は近づく。そして、そっと大王の肩に手を乗せた。 「大王……?」 大王は答えない。ただその青白くなった顔を、天井に向けているだけだ。 大長谷は恐ろしくなって、その場から飛び退いた。 (……死んでいるのか?誰が?) 自分が殺すべきであった人間を、殺した人物がいる。 それも、目弱の館で。 大長谷は、一人の人物が脳裏に浮かび、そこから駆け出した。 自分の館にそいつはいる。 大長谷は息を切らて自分の館に着くと、正面からではなく、いつも出入りしている柱をよじ登った。 自分の寝室に入る。 そこには、膝を抱えて小さくなった目弱がいた。 「目弱……」 その呟くような声に、目弱は振り返らずに答えた。 「やっぱり、大長谷は来てくれたね」 「お前の館で、穴穂が死んでいた。あれは、お前が……?」 その問いには答えずに、目弱は別のことを淡々と語った。 「ねえ、大長谷。大王の位なんて、そんなに欲しいものだろうか。僕が前大王と大鷦鷯(オオサザキ)大王の血をひいているからって、大王に相応しいかどうかなんて分からないのに」 「目弱……?」 「君の兄上たちは、みな見苦しいね。黒日子も、白日子も、そして穴穂も」 「目弱、お前知っていたのか?」 「知らないわけがないだろう?親切にも、君の兄上を始めとする多くの人間が、僕の耳元で囁いていったよ。君は自分の父親を殺した人間に庇護されて悔しくないのか、ってね!」 そんな風に声を荒げる目弱の姿を見るのは、初めてだった。目弱は、大長谷の方を振り返って言った。 「僕は、父の仇を討ったよ。大長谷、君は?」 その言葉に、大長谷はたじろぐ。 こちらを見ていないはずの目弱の瞳が、じっと大長谷を見つめているような錯覚に捕らわれた。 「俺は……」 「軽大郎女を死に追いやったのは誰?君の愛する軽大郎女を。君をただ一人愛してくれた軽大郎女を、死なせたのは誰?」 その声は、呪文のように大長谷の耳に届いた。 「軽大郎女を殺したのは、穴穂と黒日子と、白日子」 呟くように言った大長谷に、目弱は笑みを向けた。 その笑みは儚く、美しく、そしてどこか歪んでいた。 大長谷は、太刀を握り締めて黒日子の館にいた。 黒日子は大長谷に気づくと、怯えたような表情を見せた。 「大王が、死にましたよ。目弱に殺されてね。あなたは、どうしますか?」 その問いに、黒日子は答えない。ただ、震えているだけだ。 「嬉しいでしょう?あなたが大王の位欲しさに目弱に吹き込んだことなのだから。でも、次の大王はあなたではない!姉上を殺したあなたなどに、大王の位を渡すわけにはいかない!!」 大長谷は黒日子の襟首を引っ張ると、そのまま太刀を黒日子の首に突き刺した。 声にならない呻き声が、大長谷の耳に届く。 女官たちの叫び声が、うるさいくらいに館中に響き渡っていた。 大長谷は、何とも言えない満足感を味わった。 だが、その満足感に大長谷が浸るのを邪魔するかのように、白日子が現れた。 女官の叫び声を聞いてやって来たのか、それとも最初から黒日子と祝杯をあげるためにやって来たのかは定かではないが。 「大長谷!!」 白日子に肩を揺さぶられて、大長谷は掴んでいた黒日子の襟首を離した。 黒日子はその場に崩れ落ちた。だが、もうぴくりとも動かない。 「大長谷、お前!!穴穂の兄上も、お前が殺したのか!?」 大長谷は、焦点の合ってない目で答える。 「いいえ。穴穂を殺したのは目弱だ。あなた方に真実を告げられていた、ね」 にやりと、大長谷は笑ってみせる。 「目弱が……!?そうか、これで次の大王は私だ!よくやってくれた、目弱!!」 諸手をあげて喜んでいる白日子に、大長谷は冷たく言い放った。 「なれると思っているのですか?あなたなんかが大王に」 「なれるさ!なれるとも!!正しい血筋の人間は、もう私しかいないのだから!!」 「誰かお忘れではありませんか?俺という存在を」 自信満々に言う白日子を、大長谷は軽蔑した目で見つめる。 「お前が?はは、なれるものか。お前なんかが!」 だが、白日子の自信ありげな様子は崩れない。 「何故?俺だって前大王の血は引いている。姉上を殺したあなたよりも、私の方が大王には相応しい!!」 声を荒げる大長谷に、 「確かに、誰よりも前大王の血は濃いだろうさ」 白日子は意味ありげな笑みを向けた。しかし、大長谷にその言葉の意味は分からない。 大長谷は訝しげな顔をする。それを見た白日子は、その笑みを消した。 「……お前、知らないのか?」 「何を?」 「そうか、知らないのか。こいつは傑作だ!自分が何者かを知らないなんてなあ!!」 白日子は笑い出す。その声は下品で、大長谷は耳障りだと思った。 「なにがおかしい」 白日子は笑うのを止めると、大長谷に詰め寄って言った。 「いいか、教えてやるよ。お前が姉と慕っていたあの女。あいつはお前の姉なんかじゃない。お前の母親さ!」 「……っな!?」 「軽大郎女を私たちが殺しただと?あの女は、勝手に自分の愛した男を追いかけて、勝手に死んだのさ。同母の兄を愛し、しかも子まで産んだことに耐え切れなくてな!!」 「……嘘、だ」 大長谷は、やっとのことでその一言を搾り出した。 (姉上が、俺の……?そんな、まさか……!!) 「嘘なものか。王宮中、みんなが知っている。気づかなかったか?お前を見つめる兄弟たちの視線や、女官の視線が冷たかったことに」 「嘘だ!嘘だ!!」 大長谷は、白日子の手を振り払った。 「姉上を殺したのは、穴穂だ!黒日子だ!!おまえだ!!」 叫び、強く白日子を睨みつける。だが、白日子はそれに怯まずに、笑う。 「唯一、穴穂の兄上だけが、お前を庇っていた。だが、その兄上も死んだ。あの人は甘かったんだよ。殺した男の妻と子を引き取ったりなあ。挙句の果てにその子どもに殺されちまった!大笑いだよ。これが傑作じゃなくて何が傑作だ?」 白日子はひゃはははは、と下品な声で笑う。 大長谷は、耳を塞ぎたくなった。 白日子の笑い声も、白日子の告げた言葉も、全て無かったことにしたかった。 (姉上が、俺の母親?……穴穂だけが俺を庇ってくれた?……嘘だ。嘘だ!嘘だ!!) 全ては白日子が作り上げた偽りだ。大王になりたい白日子が、自分を陥れるために作った偽りだ。 大長谷は、そう自分に言い聞かせる。 だが、白日子の笑い声が聞こえ続けているように、白日子の告げた言葉を大長谷が忘れることはできない。 無かったことには出来ない。 優しかった軽大郎女の笑顔を思い出す。 軽大郎女は優しかった。それが母の優しさなのだと言われれば頷けるほどに、優しかった。 大長谷が常に懐に忍ばせている玉飾りも、母から息子への形見であったのかもしれなかった。 軽大郎女が姉ではなく、母であったらどんなに良いかと願ったこともあった。 だが、今さら真実を知って、どうしろというのか。 軽大郎女も軽太子も、穴穂も黒日子も死んだ。 皆、自分に嘘をついていた人物ばかりだ。 大長谷は、嘘を真実だと信じていた。ならば、その嘘を皆にも真実だと信じさせれば良いのだ。 「白日子、このことは誰が知っている?」 呟くように、大長谷は言った。 「王宮中の人間が知っているさ。もちろん、目弱もな!」 「ならば、一先ずお前と目弱を殺せば良いのだな」 大長谷は笑った。その笑みは、醜く歪んだものだった。 彼はもう童子ではなかった。 自分ひとりの手では何も出来ない童子ではなかった。 彼は、自分の真実を知る者を全て消すことが出来るほどに、童子ではなかった。 ◆ 後に、大長谷は雄略天皇と号される。 『日本書紀』は、雄略天皇を「大悪天皇」とも「有徳天皇」とも記している。 <了>
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