ヴィーナスの腕
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美しさは時として人を魅了し、人を狂わせる。 三年待った。待っていた。 あの人が彫刻を学びたいと言ったから。 そのためにはローマに行かねばならないと言ったから。 「待っていてくれ。帰ったら君を妻にするよ」そう言ってくれたから。 瑞々しさを失っていく肌にも、皺が刻まれていく顔にも、若さが消えていく自分にも耐え ていられてのは、あの人の言葉があったから。 だから、待っていた。 帰ってきたら、あのたくましい腕で抱きしめてくれる。 あの優しい瞳で見つめてくれる。 そう思っていたから。だから……。 三年。三年待った。 なのに、あの人は変わってしまった。 私との約束なんて忘れてしまったかのように。 帰ってきたあの人は、私を抱きしめてくれもせず、見つめてくれることもなかった。 待っていたのに。なのに!なのに……!! 美しい、美しい女(ひと)。 船の上で出会ったあの女。 長い髪を靡かせながら舳先に立ち、青く澄んだ海を眺めていたあの女。 どこか憂いを含んだ瞳をしていた。 ―――悲しいことでも? 訊ねると、何も言わずにただ儚げに微笑した。 美しい女。女神のように美しい女。 天から遣わされたかのようなその美しさ。 彼女こそ「美」そのものであり、「清純」そのものであり、この世の善なる全てのものが、彼女を通して具現化されている。 嗚呼、何故このような女性が存在するのであろうか!! この女の美しさを形にすることはできないだろうか。 神から与えられたこの美しさを形に。 そう、形に―――。 いつまで経ってもあの人は工房から出てこない。 まるで取り憑かれたかのようにひたすらに何かの像を造り続けている。 声をかけても、邪険にあしらわれる。 村の人々は、私を嘲う。哀れむような目で、私を見る。 待っていた男に見捨てられた女、と。 若くも無いから嫁の貰い手もない、と。 男は若さが無くなったのにがっくりきて、彫刻に逃げたのさ、と。 何も知らないくせに!知らないくせにっ!! 両親は私を見るたびに涙を見せる。 私はただ、信じて待っていただけなのに。愛していたから、待っていただけなのに。 信じていたのに。愛していたのに。待っていたのに。 信じていた。愛していた。待っていた。信じて。愛して。待って。信じて<嘘?>愛して <嘘?>待って<嘘?>「きみを妻に」<嘘?>信じ<嘘>愛し<嘘>待っ<嘘> 嘘!嘘!嘘!!嘘をつかれた。嘘だった。嘘つき、嘘つき!嘘つき!!裏切られた。嘘 <愛していた>嘘<信じていた>嘘<待っていた>裏切り嘘嘘嘘、嘘嘘嘘嘘!! 裏切ったのはあの人。 嘘をついたのはあの人。 抱きしめてくれなかったのはあの人。 あの人、あの人!あの人!! 嗚呼、なんて美しいのだろう。 このように美しいものがこの世に存在していいのか? 乳房のふくらみも腰のなだらかなラインも硬質の体のそのひんやりとした手触りも。 全てが愛しい。全てが美しい。 生身の女が持つことのない、持つことの出来ない美しさ。 永遠の若さと美。 この顔に皺が刻まれることは無く、この肌が瑞々しさを失うことは無い。 この女は永久にこのままで在り続ける。 美しい、美しい女。 私だけの美しい女。 けれど、何故だろう。何かが足りない。 最上の美しさにはまだ足りない。 何かが。何かが……。 私を抱きしめるはずの腕。 私を見つめるはずの眼差し。 その全てがあの像のものなんて。あの像に向けられているなんて。 そんなはず、無い。そんなはず無いのよ。そんなことがあって良いわけが無い。 ねえ、そうでしょう?だってあれは、物なのよ? なのに、あの人はあれを愛しんでいる。 あの像を見る瞳もあの像に触れる手も、あの人は全身であれを愛しんでいる。 生身では無いあの像を。 あの像が、私からあの人を奪ったというの? 人である私が像に負けるの?劣るの?私が……!? ―――壊してやる。壊してやるわ。いいえ、殺してやる。そう、殺してやるのよ。 あの人を取り戻すために。 だって、あの人は私のものなんですもの。私だけのものなんですもの。 私だけのあの人なんですもの。 私を嘲った奴らを見返してやるわ。 村の連中も、両親も、そしてあの女も。 あはは。あはははは。 死んだわ、殺してやった。この手で、あの女の息の根を止めてやった。 両の腕を叩き切ってやった。死んだ。死んだ。殺してやった。 硬い音が響いた時のあの心地よさといったら! これで、あの人は私の物。 私だけの物。 嗚呼、何てことだ。何てことだろう。 あの女から両の腕が失われてしまった。奪われてしまった。 痛かっただろう?苦しかっただろう? けれどこれはどうしたことだ。 これこそ、究極の、最上の美ではないか。 失われているが故の美しさ。 存在したであろう腕を想像する時、人々はそこに最上の美を見出すのだ。 痛かっただろう?苦しかっただろう? けれど、ここにいるこの女はなんと素晴らしく美しいのだろう。 あなたはとうとう、私の元から美の神の元へ赴いてしまった。私だけの美しい女では無くなってしまった。 私が造った身体では満足してくれなかったのだね。 けれど、私はあなたが最上の美を手にしたことを祝うことが出来る。 ああ、分かっているよ。あなたを最上の美へと導いた者には祝福を与えるよ。 そのおかげで、あなたはこんなにも美しくなったのだから。 分かっている。分かっているよ。 ああ、あなた帰ってきてくれたのね。 戻ってきてくれたのね。 あんな温かみのない女より、私の方が良いということを分かってくれたのね。 ねえあなた、抱きしめて頂戴。 私はあなたのことをずっと待ていたのよ。 待っていたのよ、あなた。 ……何?何をするの? やめて、やめて。お願いよ、やめて!やめて!!やめっ。ああっ。 ごらん、あなたを最上の美へと導いた醜かったこの女も美しさを取り戻した。 真っ赤な海に浮かぶこの女の美しいこと。あなたには敵わないけれど。 けれど、この女は老いることなくいられるんだ。むしろ喜んでいるだろうよ。 もし。もしも。 この女の足を捥いだのなら、今度はどのように美しくなるのだろうか。 頭を失くしたのなら……? 足にしようか。 頭にしようか。 それとも、胴だけにしようか? ほうら、もっともっと美しくなった。 男は、女の真っ赤な血を体中にこびりつかせながら、既に女では無くなった、人ですらなくなったものを見下ろして笑った。 その時、男は誰かの笑い声と呟きを聞いたような気がしたが、それが誰のものかは全く分からなかった。 男は、女の像の口元が歪んだことに気づかなかった。 両腕を失った女の像は、現在も人々を魅了し続けている。 <了>
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