熱帯夜







小林慎一は、額の汗を拭うと、苛立たしげに寝返りを打った。
昼間の気温は優に三十度を越え、〇時を過ぎた今でも、一向に下がる気配が無い。部屋の中は蒸し暑く、拭っても拭っても汗が流れ落ちる。
扇風機は、部屋の生温かい空気を無駄に撹拌させている。いつまで経っても涼しくならない風に、苛立ちは更に募った。
首筋をつたう汗に、不快感が増す。
布団の上を、涼しい箇所を求めてごろごろと動き回るが、部屋の温度と自分の体温とによって温められてしまっており、余計に汗をかいただけで終わってしまった。
慎一は、瞼を固く閉じたまま、再度寝返りを打った。
苛立っているのは暑さの所為だけではない。
こんな日が四日も続き、睡眠不足に悩まされている所為でもあった。慎一のこの四日間の睡眠時間は、八時間足らずであった。一日で、ではない。四日合わせて八時間なのである。
仕事中に、うつらうつらすることはあったが、それだけでは足りない分を補うことは出来なかった。
大好きなプロ野球中継を見ている時でさえ、時々意識が飛ぶのである。
唯一の楽しみの時間を奪われたくなくて、そんな時はいつもよりも大声を上げて応援する。ビール片手に、テーブルを叩くことも何度もあった。
大声を出すことで、溜まったストレスが少しは発散されるのだが、眠れないのはやはり辛い。
暑さと、睡眠不足からくる苛立ち。慎一は限界にきていた。
今日こそはぐっすりと眠りたい。
けれど、そんな慎一の切実な願いも虚しく、少しでも涼しくなるように開け放った窓からは、様々な音が聞こえてきて、慎一の眠りを妨げる。
慎一の家は集合住宅の二階にあった。入居した当初は、辺りから聞こえてくる様々な生活の音に、一人暮らしの身としては安心したものだったが、今ではそれも単なる騒音でしかなくなっている。
最初は心地よく感じられた赤ん坊の泣き声や、料理を作る音が、今では鬱陶しくてならないし、いちいち隣近所の人間と付き合っていかなければならないのも面倒くさかった。
しかも、町内会長でもないくせに、階下の住人は古株であるということを自慢にしているのか、何かと仕切りたがり、ゴミ捨て場の掃除も、当番でもないくせに積極的に行っていた。
朝、ゴミを捨てる時も、まるで番人であるかのようにそこに立っているのだ。
そして、慎一のゴミの捨て方について、分別がなってないと、いちいち文句をつけるのだ。
仕事で疲れて帰ってきた慎一の家の扉の前に、朝出したはずのゴミ袋が置かれていたことが、一体何度あっただろうか。
それは場合によっては腐臭を放ち、慎一の不快感を煽った。
自分が悪いということは分かるが、何もここまでしなくても良いだろう。
階下に怒鳴りこみに行きたいのを、慎一は何度も我慢していた。
家賃が安く、会社へも歩いていける距離にあることで、出来ればここを引っ越したくは無かった。
エンジン音を唸らせながら、大音量で音楽を流している車が入ってきた。ボン、ボンと、低音のリズムが辺りに響き渡る。
その音に、重くなりかけていた瞼が開くのを感じた。
うっすらと目を開けた状態で、慎一は寝返りを打つ。
普通の車のアイドリングの音でさえうるさいというのに、この車はそれ以上だ。マフラーを改造してあるのだろう。
眠れる。大丈夫だ眠れる。
自分にそう言い聞かせて、苛立つのを抑えた。苛立てば苛立つほど、眠りは遠のいてしまう。何とかもう一度眠りを引き寄せようと、慎一は固く目をつぶった。
だが、今度はクラクションが二回鳴らされた。
その音の大きさに、思わず慎一は跳ね起きた。
媚びを含んだ女の声が、「ごめーん」と言うのと同時に、車の扉が閉まる音が聞こえた。
そして、再び車はエンジン音をこれ以上無いくらいに響かせて、走り去って行った。
慎一は、力任せに枕を叩いた。
呼び出すにしても、クラクションを鳴らすことは無いだろう!?
叫び出したい衝動を堪える。
気分を落ち着かせるために深呼吸をすると、再び布団に横になった。
扇風機の風は、先ほどよりも幾らか涼しくなっており、慎一の身体の汗は徐々に引いていった。
眠れる。眠れる。
呪文のように口の中でそう唱えた。次第に瞬きの回数が多くなり、瞼が重くなってきた。心地よい眠りの世界に身を浸そうとした、その時。
盛大な笑い声が聞こえてきた。
「マジで!?嘘だろー」
コンクリートの階段を、上る足音が聞こえる。足音は一つ。
携帯電話で話でもしているのだろう。男は、相槌を打ちながら歩いている。
踵の合わないサンダルを履いているのだろうか、男が歩く度に、小さな風船の割れるような音が響いた。
慎一は思わず耳を塞ぐ。
うるさい。うるさい!
何故か、男は慎一の部屋の上の踊り場で立ち止まった。
「あ?今?家に帰っとこ。……は?マジ!?……あー行く。ぜってー行く!」
耳を塞いでいても聞こえてくるその声のうるささに、玄関の扉を思いっきり蹴飛ばしたい衝動に駆られる。代わりに、慎一は枕を思いっきり壁に投げつけた。
「……10分?今からだと15分かかるわ。うん。……おお、じゃな」
男は小走りで階段を下りて行く。サンダルの音が、先ほどよりも甲高く響いた。
それまでのうるささが嘘であったかのように、辺りは静かになっていた。
今度こそ、今度こそ大丈夫だ。
窓から吹き込んでくる風は、いつの間にか涼しくなっていた。慎一の頬を優しく撫でていく。
心地よい風に身を任せ、慎一は瞼を閉じた。
だが―――。
その風に乗って聞こえてきたのは、土を掘り返す音だった。
さくり、さくりと、誰かがスコップで土を掘り返している。
昨日も、一昨日も聞いた音だ。いや、その前からかもしれない。
眠ろうとする度にその音が聞こえてきて、苛立ち、結局鳥の声が聞こえてくる頃に、やっと一時間ばかり眠ることが出来るのだった。
慎一の家のベランダの向こうは、崖になっていて、住民は決して立ち入らない場所だった。危険だからと金網が張り巡らせてあるのだ。
だが、音はどうやらその金網の向こうから聞こえてくるようだった。
さくり、さくりと掘り返す音は止まない。
それまでの騒音に比べれば、土を掘り返す音などたいした大きさではないはずなのに、何故かその音は妙に耳に障った。
慎一の瞼が重くなる度、眠りに入るのを邪魔するかのように、掘り返す音は聞こえてくる。
まるで、部屋のどこかで、慎一が眠くなるのを見張っているかのようなタイミングだった。
慎一はその音に背中を向けるかのように寝返りを打った。瞼は固く閉じられたままだった。
しかし、音は止まない。
さくり、さくりと、その不快な音を響かせ続けていた。
一時間近く経っても、音は止まなかった。耐え切れず、慎一は部屋を飛び出した。



ベランダ側に回ると、金網の向こうに一人の男が立っていた。見覚えのある背格好だ。男は、慎一に気づくとスコップを握っていた手を止めた。顔をあげ、慎一に向かって微笑んだ。
「やあ、小林さん」
「……前野さん」
そこにいたのは、慎一の階下の部屋の住人、前野忠昭だった。
前野は腰をとんとんと叩くと、七十歳近いとは思えない身のこなしで金網をよじ登り、こちら側へと降りてきた。
スコップを手にしたまま、慎一に近づいてくる。
「こんな時間に、何をしているんですか」
囁くように尋ねた。
「何って、見たら分かるでしょう?穴を掘ってるんですわ」
「穴って……。何も、こんな時間に掘らなくたって」
呆れる慎一に、前野は断固とした口調で答える。
「この時間じゃないと、いかんのですわ」
「非常識だと思いませんか!?」
思わず、慎一は声を荒げてしまう。その言葉に、それまで笑みを浮かべていた前野の表情が一変した。上から下まで慎一をねめつけると、
「非常識ねえ。それはあんたじゃないか」
吐き捨てるように言った。
「ゴミのことは前にも謝ったじゃないですか!それに第一、いくら何だって、部屋の前にゴミ袋をそのまま置いておかなくても良いでしょう?酷すぎますよ!」
「ルールを守らん人間には、それ相応の罰があって当然でしょう。大体、わたしが何度あんたに注意したと思ってるんだ」
「それは……」
慎一は口ごもる。確かに、前野から注意されたのは一度や二度では無かった。それでも、少しくらいなら、何で自分ばかりがこんな風に言われなければならないのかと反発し、ルールを守らなかったのは確かだった。
「この間もねえ、わたし貼り紙しましたよね?タバコの分別がなってない人がいるって。あれ、あんたのことだよ?」
地面にさしたスコップに寄りかかり、問いかける前野の迫力に、慎一は何も言うことが出来なかった。
「それとねえ、あんた私の寝る時間に限って大声を上げるけど、あれは嫌がらせなのかね」
「大声……?」
何のことかと訝しがる慎一に、前野は淡々と話す。
「年寄りは眠るのが早くてね、八時には布団に入るんだけど、わたしがうつらうつらし始めると、あんたいっつも大声をあげるんだよね。お陰でここんところ寝不足でねえ」
「僕だって、寝不足だったんですよ。それに、まさかそんな時間に寝ているとは……」
プロ野球中継を見ながらのことを思い出し、真一は口ごもりながら答えた。
「あんたの生活リズムを中心に、世の中まわっとるわけじゃないですからねえ。ルールを守れん人間がここには多いけど、あんたみたいにひどい人は、初めてですわ」
前野は唇の端を吊り上げて、にやりと笑った。
だが、前野の瞳は笑ってはいなかった。背筋を冷たいものが駆け巡っていった。
恐ろしさに、慎一は後ずさる。体中の汗が、一気に引いていくのを感じた。
叫び出したい衝動に駆られるが、恐怖で声が出てこなかった。
「ルールが守れん人間には、罰を与えんといかんからねえ」
前野は頷きながら呟くようにそう言うと、持っていたスコップを勢い良く振り上げた。
慎一の瞳に、前野の狂気じみた笑顔が映った。

<了>




残暑お見舞い申し上げます。
今年は少しでも涼しくなっていただければなあと思って、ホラーテイストにしてみましたが、いかがでしたでしょうか。少しでも涼しくなっていただければ嬉しいです。
まだまだ暑い日が続きますので、寝不足にはくれぐれもお気をつけ下さい。

2005年8月14日 up
素材:ソザイ屋「凛 -Rin-」





陳列棚へ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送