紅薔薇幻想
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毎年夏になると、私は大叔父の家へと出かけて行く。 人間嫌いで偏屈な、親戚中から変わり者と呼ばれている大叔父と私は何故か大変気が合い、それは毎年の習慣として幼い頃から今まで続いている。 口煩い両親の元にいるよりも、全く私に干渉してこない大叔父の家は居心地が良かった。 大叔父も私も、互いに干渉することを嫌っていた。食事の時間だけはきっちりと決まっていたが、それ以外は何をするにもお互い自由だった。 小学・中学生の頃などは夏休みに入るやいなや、両親が通信簿や宿題について口にするよりも早く、荷物をまとめて飛び出していたほどだ。 だが幼い頃とは違い、大学になった今でも大叔父の家に毎夏訪れるのには他に理由がある。 一つ、どうしても気になることがあるからだ。 そうこうしているうちに大叔父の家に到着した。 呼び鈴を押しても出てこないであろうと思い、荷物と手土産の西瓜を持ったまま庭へと回った。 予想通り、大叔父は庭に居た。 庭に咲く、真紅の薔薇を愛しそうに撫でていた。 何度も見たことのある光景。 毎年、夏になると咲くこの薔薇を、大叔父はまるで人のように愛しんでいた。 最初にそれを見たのはいつだっただろうか。 毎年見るその光景。 大叔父にとってこの薔薇は特別であり、近所の人間との関係は長く続かなくとも、この薔薇との関係だけは長く続いている。 最初は大叔父が単に植物が好きな人なのだと思った。 しかし、庭は私が雑草を抜かなければ人が住んでないのではないかと思うほどの荒れようなのだ。 大叔父が丁寧に扱うのはこの薔薇だけであり、それ以外はどうでもいいのだった。 一度だけ、訊ねたことがある。 「叔父さんがその薔薇だけを丁寧に扱うのには理由があるの?」 小学生の頃だっただろう。そう訊ねた私に、普段は返答などしない大叔父が、耳元でこう囁いたのだった。 「この薔薇の樹の下には死体が埋まっているんだよ」 それはまるで世界の秘密を教えるかのように真剣な声音だった。 驚いて何も言えなくなった私に、大叔父は意味ありげな笑みを浮かべてみせたのだった。 嘘だろうかとも思ったのだが、その時の大叔父の声音が忘れられず、以来私は庭の薔薇に近寄ることを避けていた。 薔薇の紅さが、妙に恐ろしかったのだ。 そして毎年この光景を見る度に、大叔父はまるで薔薇に魅入られているようだと思う。 縁側に荷物と手土産の西瓜を置くと、大叔父が振り返った。 「なんだ、今年も来たのか」 「来ちゃ悪かったですかね?」 「いいや。ちょうど先日の大雨で雑草が育ちすぎていたところだったからな」 「叔父さんは毎年僕を庭師か何かだと勘違いしてるんじゃないですか」 溜息混じりに言うと、肩を竦めた。 「若いのを使って何が悪い。体力の無い老人に雑草抜きは大仕事なんだ」 口の端を歪めてそう言うと、縁側から部屋へと上がる。 私もそれに続いた。 「ああ。お土産に西瓜を持ってきましたよ。冷蔵庫で冷やしましょうか」 大叔父は座椅子にどかりと腰を降ろすとそれに対しては返事をしなかった。庭に目を向けている。 あの薔薇を見ているのだろう。 私はやれやれと思い、冷蔵庫に西瓜を網ごと突っ込んだ。 相変わらず空っぽな冷蔵庫である。 麦茶と数本の缶ビール。後は調味料などしか入っていない。 一体普段は何を食べて生活しているのかと不安になってくる。 食事は幼い頃はお手伝いさんが作ってくれていたのだが、台所に立てるようになってからは私が作っていた。 盛大に買出しをする必要がある。 「いつもの部屋をお借りしますよ」 居間の大叔父に向かって言うが、返事が無いのは分かり切っている。 勝手知ったる何とやらで、毎年世話になっている部屋へと荷物を置いた。 普段は一応書斎として使われているこの部屋は、小学生の頃からの私の一夏の別荘である。 いつもは埃が積もっていて掃除から入るのだが、今年は違った。 どうやら大叔父が掃除をしていてくれたのだろう。 その様を想像して思わず噴き出してしまった。 これは夕飯は立派なものを作らなければなるまい。 買出しから帰ってくると、大叔父は縁側にいた。 縁側で薔薇を眺めているのだろう。 一日の大半を飽きもせずに薔薇を眺めることに費やしているのである。 雨の日も、風の日も、晴れの日も、曇りの日も。 どんな時でも大叔父は薔薇を眺めていたし、愛しそうにその花びらを撫でていた。 それはまるで愛撫のようにも見え、時々何故か赤面してしまうこともあった。 あの庭は、さながら薔薇と大叔父の二人だけの世界なのである。 それをどこか羨ましく思いながら、私は夕食の準備に取り掛かった。 「叔父さん、食事が出来ましたよ」 薄暗くなっていく縁側で薔薇を眺めている大叔父に声をかける。 大叔父は「ああ」と生返事をするだけだ。 特に冷めても支障のあるメニューではないので、私も縁側に腰をおろした。 大叔父と並んで薔薇を見つめる。 夕陽を浴びて紅とも何とも言えない色で輝く。 緑の木々や雑草の中にぽつんと咲く紅の薔薇。 大叔父は何故そこまでこの薔薇に魅せられているのだろうか。 薔薇を見つめている大叔父の横顔を盗み見る。 大叔父の瞳は、薔薇が愛しくて愛しくて仕方ないと言っていた。 ぽつりと、大叔父は呟いた。 「お前にだけは、話しておこうと思っていたんだ」 「……何を、ですか?」 「それが知りたくて、お前もずっとここに来ていたんだろう?あの、薔薇のことだ」 そう言うと、大叔父は立ち上がった。 「一先ず、夕飯を食ってしまおうか。折角お前が作ってくれたんだ」 そう言って浮かべた笑みは、いつにも増して優しいものだった。 食事をしている間は気が気ではなかった。 一体あの薔薇には何が隠されていると言うのだろう。 そしてどうして大叔父は急に私に話しておこうと思ったのだろうか。 そんな疑問ばかりが頭を支配して、食事の味など全くしなかった。 「さて、何から話そうか」 食後に一杯の麦茶を飲みながら、大叔父はそう言った。 「あの薔薇の下には死体が埋まっているんだと、そう以前にお前に言ったことがあったが、嘘だと思っていたか?」 「……嘘だと、そう思おうとしていました。でも、どこか本当のような気がして……」 あの紅色が瞼の裏に浮かんだ。 「そう。あれはな、本当なんだ。あの薔薇の下には死体が埋まっている。そして、それを埋めたのは、他でもない、私だ」 大叔父のその一言は、私の予想していた通りのものだった。 □■□■ 一人の男がいた。 そして、一人の女がいた。 男と女は恋仲だった。結婚の約束もしていた。 互いが互い以上の相手はいないと思っていた。生涯寄り添っていくのに、これ以上の相手は無いと。 しかし女は病に臥せってしまう。 医者も匙を投げる程の病。 痩せ細っていく女の身体。 男は嘆き悲しんだ。 嗚呼。何故。何故私の愛しい人が。代われるものならば代わりたいと、一体何度願ったころだろう。 しかし男の願いも虚しく、女の病状は悪化するばかりだった。 女はか細い息の中呟く。 「どうか、どうか私が死んだら燃やさずに、あそこに埋めてはくれませんか」 それは、二人で買った薔薇の樹の下だった。 二人で苗を植え、二人で育ててきた。しかし、育て方が悪いのか、なかなか花は咲かなかった。 来年はきっと咲かせようね。 そう約束して育ててきた薔薇だった。 男は頷く。 「お前の望む通りにしよう。だから、どうか死なないでおくれ」 そう言って力強く握った手も虚しく、女は儚い人となってしまった。 男は呆然と、ただ女を眺めていた。 死んでいるようには全く見えない。眠っているかのようなその顔。 「どのくらいの間そうしていたのかは覚えていない。ただ、じっと。じっとあいつの顔を見ていた。 あいつには身寄りが無かった。だから、あいつの遺体をこの樹の下に埋めることに誰も反対はしなかったんだ。 私は、庭を掘り返したよ。 暑い日だった。蝉が煩いくらいに鳴いていた。汗が一筋頬をつたっていった。額の汗をタオルで拭った。一つ一つが、恐ろしいくらい に鮮明だった。 そうして掘った穴に、あいつを埋めたんだ。綺麗な顔をしたあいつを。あいつの望み通りに。 ……その翌年だったよ。あの薔薇が、真紅の花を咲かせたのは。 ああ、あいつだ。 そう思った。 あいつが咲かせてくれたんだ。あいつが自分の身体で薔薇を咲かせてくれたんだ。 そう思うと自然と涙が零れてきた。あの薔薇が愛しくて愛しくて仕方なかった。 言ってみればあいつの生まれ変わりだ。愛しくて当然なんだ。当然なんだよ」 大叔父は淡々と語った。 私は何と言っていいのか分からずに、ただじっと庭の方に目を向けるだけだった。 「時々、本当に時々だが、あの薔薇にあいつの姿が見えると言ったら、お前は信じてくれるかな?」 私はただ黙って頷いた。 「……そうか」 大叔父はそう言ったっきり黙り込んでしまった。 風鈴が風に揺れて涼しげな音を響かせた。 その時になって私は初めて、自分の手のひらが汗でぐっしょりと濡れていることに気がついた。 □■□■ 「叔父さん、今年もやって来ましたよ」 私は縁側に腰を下ろしてそう言った。 庭は相変わらず荒れ放題で、全く手入れがされてなかった。 手土産に持ってきた西瓜と、そして小さな骨壷を縁側に置くと、スコップを握る。 煩いくらいの蝉の声。 頬をつたっていく一筋の汗。 大叔父も、きっとこうして庭を掘り返したに違いない。 恋人を想いながら。 あの夏、大叔父が私にあの話をしたのは、自分もこの樹の下に埋めてもらいたかったからに違いない。愛しい人の傍らで、眠りたかっ たに違いない。 しかし、大叔父をここに埋める事は許されなかっただろう。 だから、せめて。 骨ぐらいはここに。一部だけでもいいから。 掘り返した土をまた丁寧に戻し終えると、私は額の汗を拭った。 「ああ、ビールが飲みたいな」 呟いても、返事をする相手はいない。 かつてここにいた人物は、どうせ返事なんてしてくれなかっただろうけれど。 もう一度縁側に腰を下ろす。 今年の薔薇は、以前までに比べるとどこか元気が無いように見えた。 「これは庭守が必要かな。ねえ叔父さん」 自分なんてどうだろうか。 大叔父は、それも期待していたのかもしれない。 親戚が言うには、この家は売りに出されることはないのだそうだ。 ならば、自分が貰い受けても構わないだろう。 家に帰ったら、早速父親に相談してみよう。 「また来ますよ」 西瓜を樹の根元に置いた。 去り際、どこからか「ありがとう」という声が聞こえたような気がした。 振り返った先には薔薇の樹。 そこに、大叔父とその恋人の姿が見えたと言ったら笑われてしまうだろうか。 それはきっと、薔薇が見せた幻―――。 <了>
2004.09.15 |
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