雨男は陽気に笑う






土谷小春は、その朝も祈るような気持ちでカーテンを握り締めていた。
光がカーテンの隙間から差し込んでこないのは、質の良い遮光カーテンだからだと何度も自分に言い聞かせて、勢い良くカーテンを開けた。
(神様。今日こそは。今日こそは……!)
固く瞑っていた目を恐る恐るゆっくりと開く。目の前に広がる光景に、小春は愕然とした。
「負けた……!」
―――今日も、窓の外は雨。


登校する生徒の群れの中から、一際目立つ青い傘を見つけると、小春はそこに向かって勢い良く走り出す。
水しぶきが跳ねることなんて気にしない。
足音が聞こえたのか、傘の主は振り返った。
「おはよう、小春」
にっこりと笑う相手に、小春は出かかった言葉を全て飲み込んだ。
いつもそうだ。毎朝負けたことが悔しくて、腹立ちのままに相手に文句を言ってやろうとするのに、相手がいつも笑顔を浮かべるせいで小春は何も言えなくなる。
その笑顔を見る度に、こんなことで悔しがっている自分は、何と小さい人間なのだろうと思ってしまうのだ。
「おはよ。今日も……雨だね」
小春は溜息を一つつくと、飲み込んだ言葉の中から当たり障りのないものを選び出して呟いた。
「そっちの勝ちね」と言うのは、あまりにも悔しすぎた。
それでも、相手は言いたいことを察したのか、
「ごめんね」
と、肩をすくめて苦笑を浮かべた。
それを見て、小春は抑えていた苛立ちが甦ってくるのを感じた。
「謝ってほしいわけじゃないよ」
つい、きつい口調で言ってしまう。
相手の顔が曇っているだろうことを感じてちらりとそちらを見るが、そこにあったのは相変わらずの陽気な笑顔だった。
それを見て小春は、やはり雨宮には敵わないと思い知らされるのだった。


土谷小春は、小学校・中学校と行事には欠かせないと言われたほどの晴女だった。
「小春ちゃんがいてくれるといつもお天気だね」
そうクラスメイトに言われることが、小春は何より嬉しかったし、自慢でもあった。
運動会で、遠足で、修学旅行で。様々な行事の度に広がる青く晴れ渡った空と、浮かべられるクラスメイト達の笑顔。
その度に、小春は自分が誇らしく思えた。
けれど高校に入学してからというもの、それが一変した。
入学式にオリエンテーション。クラス対抗の球技大会。どの行事でも、空が青く晴れ渡ることは無かった。
代わりに、どんよりと重たい雲が常に青空を覆い隠した。
小春はショックだった。
今までどんな行事の時だって晴れさせてきたのに。
自分の晴女の経験値がこれほどまでに低かったなんて。
楽しいはずの高校生活を暗い気分で送っていた小春の耳に、その噂は聞こえてきた。
「今世紀最大の雨男」。
そう呼ばれる人物がこの学校にいるというのだ。
その人物は、生まれた時に気象予報図に全く姿を見せていなかった台風をこの街に直撃させ、小学校・中学校と全ての行事で大雨を降らせたというのである。
そいつの所為か!
小春は、すぐさまその人物のいる教室に向かった。
一言、何か言ってやろうと思ったのだ。
「雨男って、どいつ!?」
凄んで聞いたその相手が、まさしく今世紀最大の雨男―――雨宮雫、その人だった。
雨宮は、「俺です」と、おずおずと手を上げると、八重歯を見せて笑った。
そのあまりにも明るい笑顔に、小春は言おうとしていた言葉を全て飲み込んだ。
代わりに口をついて出たのが、「勝負よ!」という一言だった。
その後、雨宮と合わせて小春の名前も全校中に知れ渡った。
「雨男に挑戦状を叩きつけた晴女」、として。
どちらが勝つかに、食堂のSランチを賭けている生徒もいるらしい。
こちらの気も知らないで、呑気なものだ。
小春は隣を歩く雨宮をちらりと見ると溜息をついた。
今のところ、軍配は雨宮に上がり続けている。全勝全敗だ。
レベルが全然違うのだろう。何せ相手は「今世紀最大の」という冠がつくくらいの雨男なのである。一方小春は、「普通の」晴女だ。
それでも、小春は雨宮に勝ちたかった。
勝って、青空の下に雨宮を連れ出したかった。
「なあなあ、これ見てくれよ。俺の新作」
小春の心の内など知らない雨宮は、突然手にしていた青い傘を小春に向けてきた。
「ちょっと雫がかかるじゃ……。……イルカ?」
傘から落ちてくる雫に眉を寄せた小春だったが、描かれているものを思わず注視していた。
「残念!シャチでしたー」
雨宮が小春に向けてきた傘の表には、海を雄大に泳ぐシャチの姿が描かれていた。
「どうどう?良くない?」
雨宮はもう一度傘をきちんとさすと、くるくるっと回して見せた。
それに合わせて、自分もくるりと一回転してみせる。雫が周囲に飛び散るが、それはまるで本当にシャチの体から水が飛び散っているかのように思えた。
「んー70点ね」
「ええー」
雨宮はその点数に不満なのか、子供のように頬を膨らませている。傘のあちこちを見回して、「どこが悪かったのかな」とブツブツ呟いている。
「海の色が、もう少し明るい方が良いと思う」
「そっか。サンキュ!」
小春が指摘すると、雨宮の顔がぱっと輝いた。
今度は傘の布地をじっと見ながら何事かを呟き始めた。
それを見て、本当に傘作りが好きなんだな、と小春は笑みを浮かべた。


「その傘、良いね」
小春がそう口にしたのは、まだ雨宮との対決が一桁台だった時だ。
その日も雨宮は、とても目立つ青色の傘をさしていた。
描かれていたのは、晴れ渡った青空だった。
最初、雨宮は何を言われたのか分からずにきょとんと目を丸くさせていた。
それもそうだ。
その前まで、小春は雨宮に今日も雨であることに対して散々文句を言っていたのだから。
小春は、雨宮の傘を指差してもう一度言った。
「傘、良いねって言ったの。ちょっとだけだけど、青空が見れて嬉しくなる」
「マジで!?」
勢い良く聞かれて、小春は首を縦に振った。
すると、雨宮は嬉しそうに、そしてどこか誇らしそうに、
「これ、俺が作ったんだ」
と、言った。
「雨宮が!?本当に?」
「うん。……誰にも言ってなかったんだけど、小春にならいいかな」
そう言うと、雨宮は雨音にかき消されてしまうくらいの小さな声で呟いた。
「俺、傘を作る人になりたいんだ」
「傘を作る人?」
聞き返した小春に、雨宮は俯いたまま答える。
「うん。俺、物凄い雨男だろ?だから、どうしてもみんなの表情を暗くさせちゃうんだ。でも、みんなが俺の作った傘で少しでも笑顔になってくれたら嬉しいなって思ってさ。さっきの小春みたいに。笑ってくれたらいいなって」
雨宮は顔を上げるとお陽さまのように笑った。
その笑顔は今も、小春の目に焼きついている。
(思えば、あれがきっかけだったのかもなあ……)
ぼんやりと教科書を眺めていた小春の耳に、自分の名を呼ぶ教師の声が大きく聞こえてきたのはその時だった。
「土谷!!」
「はい?」
頓狂な声で返事をした小春の目に、前の席で懸命に自分の教科書を指し示している友人の姿が映った。当てられていたのだと焦る小春に、
「雨宮対策もいいけどな、テスト対策もしっかりしてくれんと困るぞ」
教師は、自分の言った言葉が面白かったのか、一人豪快に笑った。小春は苦笑を浮かべるしかなかった。
当てられた練習問題5問を難なく解き終わった小春が黒板の前から自分の座席に戻ってくると、窓の外に今朝見たばかりの青い傘があることに気が付いた。
雨宮だ。
校舎を見上げていた雨宮は、小春に気づくと傘を大きく掲げて左右に振る。それを見て、小春は知らないうちに顔が綻んでくるのを感じた。
小春が教師に気づかれないように小さく手を振ると、雨宮も手を振り返した。
そして、口を大きく開けて「じゃあね」という動きをしてみせた後に、くるりと踵を返すと、校門に向かって歩き出した。
傘に隠れて、こちらからでは雨宮の表情を見ることは出来ない。
けれど、小春には何故かその背中が泣いているように見えたのだった。


「別にね、雨宮が早退しようが何しようが構わないんだけどさ。けど、たまには敵に塩を送ってみてもいいかなって思って」
自分でも訳が分からない理由だな、と思いながら、小春はケーキの箱を突き出して言った。
目の前にはTシャツにジーンズという、私服姿の雨宮が座っている。
ここは、雨宮の部屋である。部屋には、骨だけになった傘や、布地や、傘作りに必要な様々なものが散らばっていた。
雨宮は差し出された箱に貼られたラベルに、目を輝かせている。
「これ、ベリーベリーの!?」
「う、うん。苺のショートケーキ」
「やった!さっすが小春!」
雨宮は、今にも踊り出しそうにケーキの箱を受け取ると、いそいそと箱からケーキを取り出す。
徐に手でつかむと、のっていた苺を避けてからがぶりと齧り付いた。
「で、何で今日早退したの?具合でも悪かった?」
問いかけた小春に、雨宮は顔を横に振る。
三口ほどでケーキを食べ終えると、取って置いた苺を、嬉しそうに口に放り込む。
「んーサッカー部の先輩がさあ、休み時間にベリーベリーのケーキを持ってきたんだよね。で、深刻な顔してるから何かと思ったら、今日から三日間、学校に来ないでくれって」
「何よ、それ」
眉間に皺を寄せる小春。雨宮は、ケーキの箱にまた手を伸ばしている。
「サッカー部のね、大事な試合が週末にあるんだって。で、その日に向けて調整したいから、雨降ると困るんだって」
「そんなの、雨宮が来ないからって降らないなんて保障はないでしょ!?」
「けど、俺が行けば確実に降っちゃうし。もし雨が降っても、俺が行かなければ、向こうも納得するでしょ?それに、小春がいれば晴れると思うよ」
ショートケーキの苺を、嬉しそうに口に放り込む雨宮を、小春は釈然としない思いで見つめる。
「……雨宮は、それで良いの?」
すると、雨宮はどこか寂しそうに微笑んだ。
「仕方ないよ。俺は、雨男だから」
「分かったわよ!」
その一言を聞いて、小春は思わず怒鳴っていた。
ケーキを持ったままきょとんとしている雨宮に向かって、指を突きつける。
「今度の勝負は来週の月曜日!あんたが再び登校してきた時よ!今度こそ、晴れさせてやるんだから!!」
小春はそう言うと、勢い良く部屋を飛び出した。


月曜日。
祈るような気持ちでカーテンを開けた小春の目の前に広がっていたのは、やはり、どんよりと重たい灰色の雲だった。
晴れの日が続いていた代わりであるかのように、降りしきる雨の量も、いつにも増して多い。
今度こそ晴れさせてやると豪語したのに、これでは雨宮に会わせる顔が無い。
小春は、深い溜息をつくと、そのまままた布団に潜り込んだ。

午後になって、「春ちゃん、いつまで寝てる気!?」と、母親に無理矢理布団を引き剥がされた小春は、渋々布団から這い出した。
不機嫌な顔をしている小春に、母親は笑顔を浮かべると、
「学校さぼったんだもん、お使いくらい行ってきてくれるよね?」
そう言われてしまっては、断ることは出来ない。
着替えて嫌々外に出た小春の眼前には、変わらず灰色の空が広がっていた。
朝に比べると雨は小降りにはなっていたが、それでも小春の気持ちと足取りを重たくするのには十分だった。
(こうなったら、山篭りでもするしかないのかなあ) 雨は、傘に当たって軽快なリズムを刻む。けれど、小春の気持ちは重たく沈んでいくばかりだ。
(太陽の下で雨宮の笑顔が見たいっていうのは、そんなに贅沢な願いなのかな?)
顔を上げて、空を見上げることも出来ない。見上げればきっと、灰色の空が小春の疑問を否定してくるような気がしていた。
その所為で、前方から人がやって来ていることに、小春は全く気づいていなかった。
「いた!」
荒い息と共に吐き出された言葉に、小春は顔を上げた。
「……雨宮?」
きょとんとして雨宮を見つめる小春。
雨宮は、呼吸を整えるために深呼吸している。手には、青い傘。今日は青空が描かれている。
雨宮は、いつもの陽気な笑みを浮かべると、
「さぼんなよなあ。今日が勝負って言ったの小春じゃんか」
「もういい。勝負やめる」
間髪を入れずに、小春は言った。
「何で!?」
「だって……いつまで経っても、雨宮に勝てないもん」
小春は俯いたまま答えた。
雨宮は何も言わない。
二人はしばらくの間、傘に当たる雨音の軽快なリズムだけを聞いていた。
先にそれを打ち破ったのは、雨宮だった。
「……そっか。やめたいなら、仕方ないよね。でも、俺は小春との勝負楽しかったよ。楽しかったっていうか、嬉しかった……かなあ」
その言葉に驚いて、小春は顔を上げる。
雨宮は照れているのか、小春から視線を逸らして続けた。
「俺みたいにさ、変な奴なのに、小春はいつも構ってくれたでしょ。クラスの奴らとも仲良いけどさ、それでも、やっぱり壁はあるんだよね。天気の話はタブーみたいなさ。でも、小春はそういうの無視して俺と喋ってくれたから、嬉しかった。勝負やめてもさ、今までみたいに接してくれると嬉しいんだけど」
言葉を探していたのだろうか、きょろきょろと定まらなかった視線が、最後にはしっかりと小春を捉える。
まっすぐに小春を見つめて、雨宮は笑う。
その笑顔に、小春は胸が痛くなった。
「……何で。何で雨宮はそこで笑うの?怒ってもいいのに。私、自分勝手なことばっかり言ってるんだよ?突然勝負吹っかけて、今度は突然やめるって言って」
「でも、俺はそれでも楽しかったから」
「サッカー部の先輩の時もそう。怒ってもいいのに。本当は傷ついてたくせに」
「でも、俺は雨……」
雨宮の言葉を遮って、小春は言った。湧き上がってくる感情を、抑えることが出来なかった。
「雨男だから何だって言うの!?雨男だからって、そうやって人のことばっかりに気を使わなくちゃいけないの?雨宮の……。雨宮の、気持ちは、誰が分かってくれるの?」
不意に、雨宮の視線が小春の向こう側に注がれた。
目を見開いて、そこにある光景を見つめている。
口元に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。
「虹!小春、虹だよ!」
その言葉に、小春は慌てて振り返る。
灰色の空に架かる、虹色の橋。
それは、雨を裂くかのように広がっていた。
「綺麗……」
思わず、言葉が漏れた。
小春は、自分の顔が綻んでいくのが分かった。
「雨の日でも、良いことってあるんだね」
雨宮は、小春を見て、八重歯を覗かせて笑う。
それを見て、小春は肩の力が抜けていくのを感じた。肩だけではない、全身の力が抜けていくのを感じた。
同時に、重たかった気持ちが、ゆっくりと軽くなっていく。
やはり、雨宮には敵わないのだと思い知らされる。
小さく嘆息をつくと呟いた。
「やっぱり、勝負やめるのやめる」
「本当に!?」
今にも踊り出しそうな雨宮。足取りも軽く、一人でさっさと歩き出してしまう。
どこに行くのか知っているのだろうかと、小春は首を傾げた。
雨音にかき消されるくらいの小さな声で、小春は呟いた。
「今度こそ、晴れさせてやるんだから」
いつか必ず雨宮に勝って、青空の下に引っ張り出してやる。
そして、太陽の下で雨宮の笑顔を見るんだ。
それは、雨の下で見るよりもずっと、輝いて見えるに違いない。
雨宮の嬉しそうな背中に向かって、小春は強くそう思った。

水溜りの上で軽くステップを踏んで。
くるりと傘ごと雨宮は振り返る。
「行こ、小春」
そう言って、雨男は今日も陽気に笑った。


<了>




以前、Tさんとチャットをしている時に雨男の話題になって、そこからヒントを得て生まれた話です。
そんなわけで、この作品は、いつもお世話になっているTさんへ捧げます。拙いものですが、貰ってやって下さいませm(_ _)m
予定よりもなんか少女漫画な展開になってしまいました(汗)
イメージソングは、ORCAの「トイピアノ」。
ちなみに、作中に出てくるシャチの柄の傘と青空の傘は、実際に市販されていたりします。私は持っていませんが。でも、見つけた時に良いなあと思ったので、作中で登場させてみました。
梅雨の時期にアップしたかったのですが、ぎ、ぎりぎりセーフ?
宮城はまだ梅雨なので、良しとしましょう。

2005年7月11日 up
素材:「factory C」



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