彼女の涙





いつも、涙を流すのは僕の方だった。
彼女は決して、僕の前では涙を見せなかった。
それは、付き合い始めてからずっとのことで、僕はいつの間にか、彼女も泣くのだということを失念していた。
泣くのはいつも僕だけ。
彼女は決して泣かない。
そう、いつの間にか思い込んでしまっていたのだった。



その言葉を聞いたのは、駅のホームでだった。
僕と彼女の家は逆方向で、先に来る彼女の電車を見送ってから、僕は電車に乗り込む。
一日の終わりは駅のホーム。
それは、いつもと何ら変わりのない日常の一コマのはずだった。
けれど、彼女の一言がそれを非日常にした。
「……よう」
彼女の言葉。
口の動きも見えているのに、僕の耳はそれを聞くことを拒んだ。
それは、あってはならないセリフ。
聞いてはいけないセリフ。
そういえば、今日の夕飯はなんだろうな。あ、今日は僕のあげたピアスをしていない。ピアスといえば、
あの白い糸を引っ張ると失明するって話は本当だったんだっけ?ピアスの穴は奇数の方がいいっていうの
は、なんでなんだろ。奇数と偶数って、いつも言い間違っちゃうのは僕だけかな。
僕の頭は、ものすごい勢いで思考を開始した。
彼女の言った言葉が何だったのか考えないように。僕の目は、徐々に彼女から視線を逸らしていく。
電光掲示板を見つめる。次の電車の発車時刻。線路の向こうの看板。へえ、動物病院なんてあったんだ。
現実逃避をしようとする僕の手をきゅっと握って、彼女はもう一度言った。
「別れよう」
今度は、そこにあるどの音よりもクリアに聞こえた。
一瞬、世界は僕と彼女だけを残して停止したのではないかと思わせるほどに、周りの音は全て消え去った。
「どうして?」と、訊ねようとした言葉は声にならなかった。
次第に歪んでいく僕の視界。
世界が歪む。彼女が歪む。
言葉が出てくるよりも先に、涙が出た。
溢れる。零れ落ちる。
いつもなら、差し出してくれるハンカチ。
今日はそれも無い。
「……どうして?」
やっとのことで、搾り出してそう聞いた。
掠れている。震えている。
かっこ悪い。けど…。
「別れるのに、理由が必要?」
黒い瞳が真っ直ぐに僕を見る。
意志の揺らがない瞳。
僕は彼女の肩を掴んだ。
「嫌だ」
「我侭」
困ったように、彼女は笑った。
「僕が、泣くから?」
首を振る。
「どうして?」
「だから、理由なんて無いよ。あるとすれば面倒になった。それだけ」
「嘘」
首を振る。
「痛いから、離して」
肩を掴んだ僕の腕を彼女が掴む。
「本当に、別れるの?」
僕は再度問いかけた。
じっと彼女の目を見つめる。一瞬、瞳が揺らいだ。
嘘だ……!!
そう、直感した。
「本当。嘘じゃないよ」
彼女は微笑んだ。
それは、僕の大好きな笑み。
嘘だと分かっても、それ以上何も言うことが出来なかった。

「間もなく、3番線に列車が参ります。危ないですから白線の内側に下がってお待ち下さい」

彼女の乗る電車が来る。
あと、少しで。
遠くから聞こえる電車の音。それは、僕らの別れの合図。
僕は、彼女の肩にもたれかかって泣いた。
最後だから。
最後だからこそ。

その時、僕は気づかなかった。
彼女が必死で唇を噛み締めていたことを。
溢れ出す涙をこらえようとしていたことを。
電車が発車する間際になって、僕はそれに気づいた。
彼女の目から零れた涙。
それは、僕が見た彼女の初めての涙。
頭を、思いっきり殴られたような衝撃だった。
僕は、自分の愚かさに気づいた。
どうして、どうして彼女も泣くのだと気づかなかったのだろう。
僕に涙を見せなかったのは、彼女の優しさ。強さ。
それなのに、僕はいつも彼女に甘えてばかりだった。
彼女の涙に気づかなかった僕は、愚かで、優しくなくて、弱くて。
電車は走り去って行く。
もう、彼女に追いつくことは出来ない。


<了>

素材:「Little Eden」



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