不機嫌な皇女








その日、皇女(ヒメミコ)は朝から不機嫌だった。
紅をささずとも赤い唇を引き結び、苛立たしげに館の中を歩き回っていた。
足音は、いつにも増して大きな音を立てている。
「皇女様、落ち着いてくださいませ」
優しく諭す女官を、一睨みする。その視線に女官は首を竦め、口を噤んだ。
誰にも私の気持ちなど分からない)
皇女の胸中には、その思いしかなかった。
そもそも、何故皇女―――手白香(タシラカ)皇女がこうも苛立っているのかと言うと、今夜、一人の人物と対面せねばならないからだった。
その人物とは、皇女にとっては夫となる人物である。だが、皇女にはその人物が気に喰わなかった。
いくら皇女とて、人々の噂くらいは耳に入っている。
特に女官は噂話が大好きで、皇女に聞こえないと思っているのか、大きな声で話している事が多い。
知らないふりをするのが筋だろうと、皇女はただそれに聞き入っている。
皇女も噂話を聞くのは好きなのだ。自分の知らない土地や知らない人物の話を聞くのは楽しかった。
だが、今回はその噂の所為で苛立っているといっても良い。
皇女の夫となる人物に対して、人々は嘲りと共に噂していたのだから。
女官だけでは無い。
皇族や、臣下たちだって同じだ。
皇女は知っている。
臣下達が、「今度の大王は雛つ国からやって来る」と小馬鹿にしていることを。
女官たちが、「熊のような大男が今度の大王だそうよ」と仕えるのを嫌がっていることを。
今度の大王、つまり皇女の夫となる人物にはこんな噂しかないというのに、その人物を夫にしなければならないなんて、皇女は嫌だった。
そうしてそう噂していたのに、皇女にそれを強いる周囲にも、皇女は苛立っているのだった。
(何故私が雛つ国からやって来た熊のような大男を夫にせねばならないの!?)
今すぐにでも、勝手にそう話を決めた大伴金村(オオトモノカナムラ)に、円座を投げつけたい気分だった。





その話を、大伴金村が持ってきたのは昨夜のことだった。
舎人も連れずに、一人馬に乗って皇女の館にやって来た。
普段は笑みを絶やさない金村が、真剣な面持ちだったことに皇女は驚いた。
気心の知れる女官だけを残し、他の女官を下がらせても、金村はなかなか口を開かなかった。
最初は皇女も重大事だろうと真剣に待っていたのだが、なかなか金村が口を開かないので飽きてしまい、大きな欠伸を一つした。
すると、次の瞬間金村は頭を床に着けんばかりに平伏すと、
「この金村、皇女様に一生のお願いがございます」
と、思いつめた声で言った。
皇女は何が起きたのか分からずに、呆然と金村を眺める。そして、助けを求めるように、女官の方を向いた。
だが、女官は苦笑してみせるだけだった。
「大連(オオムラジ)どの、どうか頭を上げてください。一生のお願いと言われましても、その中身を聞かねば返答に困ります」
皇女は、精一杯威厳を保ってそう答えた。
「いえ、皇女様に願いを聞いていただくまでは……!」
額を床に擦り付ける音が聞こえた。
その必死な様子に、皇女は溜息を一つつくと、
「分かりました。大連どのの願い、この手白香でよければ叶えましょう」
と、答えたのだった。
それが金村の策略であるとも知らずに。
皇女がそれに気づいたのは、金村が満面の笑みとともに顔を上げた時だった。
「皇女様、今のお言葉に嘘偽りはございませんな」
しまった、と思ったが時すでに遅し。そう問われては、
「……私は嘘偽りは申しません!」
と、答えるしかない。皇女は悔しさに領布をきつく握り締めた。
「それで、願いとは何なのです」
悔しさで上擦りそうになる声を懸命に抑えてそう聞いた。
「皇女様には、男大迹(ヲホド)大王を夫に迎えていただきたいのです」
それを聞いた皇女は、思わず立ち上がって叫んでいた。
「何ですって!?」
女官が座るように嗜めるが、それに構っている余裕などない。
金村をきっ、と睨みつける。
「私にあの雛つ国から来た熊のような大男を夫にしろと!?今、そう申したのですか!?」
金村は皇女の視線を、やんわりと笑みでかわした。
「はい。申し上げた通りでございます。そして、皇女様はわたしの願いを叶えてくれると、嘘偽りは申さないと、そう仰いましたな?」
その時、皇女の目には金村の笑みがそれまでの優しいものとは打って変わって、悪どいものに映ったのだった。
きっと禍つ神はこんな顔をしているに違いないと、その時皇女は思った。





そうこうしている内に、出立の時間が近づいていた。
皇女は装いを整えられ、化粧を施されていた。化粧などせずとも美しい顔が、より一層煌びやかに輝いていた。
対面は、男大迹大王のいる樟葉宮(クスハノミヤ)で行われる。
その為、皇女は日が高くならない内に自分の館を出立せねばならなかった。
それも皇女が苛立っている原因の一つだ。
(雛つ国から来た人間の方が皇女である私よりも偉いだなんて、納得がいかないわ)
昨日、帰り際に金村が言っていた言葉を思い出す。
「男大迹大王は優れているお方です。ですが、身分に問題があるとして、人々は認めようとしない。皇女様を大后とすれば、人々も認めてくださるでしょう」
そう、金村は言っていた。
つまり、皇女の身分の高さで男大迹大王の身分の低さを補えということである。
(例え結婚したとしても身分は私の方が上。雛つ国の人間などの好きにはさせない!)
皇女はそう決意すると、唇をきゅっと引き結んだ。






樟葉宮に着いた皇女は、長い間待たされてた。
着いた早々、一人の年配の女官が部屋に来ただけで、いつまで経っても男大迹大王が来る気配も、男大迹大王から呼ばれる気配も無い。
年配の女官はただ微笑んで皇女を見つめている。部屋にはこの女官と皇女の二人だけである。
他の女官は、年配の女官が全て下がらせてしまった。
「対面は、いつになるのです?」
苛立たしげに女官に聞くと、女官はやんわりと微笑み、
「大王様の準備が整いますれば」
と言うだけだった。
その姿を見て、皇女は違和感を覚えた。
どうも女官にしては気品がありすぎるのだ。年の所為だろうか。
じっと見つめていると、女官と目が合った。すると、女官は優しく笑んだ。皇女は慌ててそこから視線を逸らす。
何もかも見透かされているような、そんな感じがしたのだ。
そろそろお腹も空きかけたという頃に、やっと大王から呼ばれた。
(これだけ待たせておいて、自分から出向かないなんて……!)
皇女の機嫌は悪くなるばかりだ。
年配の女官に連れられて大王のいる部屋へと向かう。
徐々に、心臓が大きな音を立て始める。一歩進むたびに、一つ大きくなる。
皇女はそれに気づかない振りをして、毅然と前を見据えていた。
部屋に入ると、一段高いところに男がいた。
熊のような風貌をしたその男は、皇女が想像していたのよりも若く見えた。
大王は既に五十は過ぎていると聞いていたのだが、今目の前にいる男は、それよりも遥かに若く見える。
そして、何とも言えない生気が男から感じられたのだった。
皇女はじっと男を見つめる。見惚れていた、と言っても過言では無い。
「このように若く美しい娘を大后にせよとはな……」
溜息混じりに告げられたその言葉に、皇女は我に帰った。
かっと顔が熱くなるのを感じた。
男に見惚れたいたという事実が、皇女には恥ずかしくもあり、腹立たしかった。
また、男の言葉が自分を「小娘が」と馬鹿にしているように感じられたのだ。
きっ、と男を見据えると、男は口の端を吊り上げてにやりと笑った。
見透かされている―――!?
「そなたが手白香皇女か。私は男大迹。一応、そなたの夫になる者だ。とは言っても、親子ほども年が離れているがね」
そう言い、苦笑する。大王は皇女に手で座るように合図した。
皇女は大人しくそれに従う。
先ほど皇女を案内してきた女官は、大王の隣に控えている。
「さて、本題に入ろうか」
「その者は、下がらせなくてもよろしいのですか」
皇女が女官の方を向いてそう言うと、大王は目を丸くさせた。
そして、女官の方を見ると親しげな笑みを浮かべる。
「目子(メノコ)、そなたまだ皇女に挨拶をしていないのだろう?」
「はい」
女官は、同じように大王に笑みを向けた。
互いに、何かを目で語り合っている。
「そなた中々に意地悪だな」
「嫌ですわ。皇女様の人となりを知りたかっただけです」
皇女の方を向くと、丁寧に頭を下げて続けた。
「私は尾張連草香(オワリノムラジクサカ)が娘、目子にございます」
その一言に、皇女は愕然となった。
尾張連草香の娘目子媛と言えば、男大迹大王が大王になる以前からの后である。
女官だとばかり思っていたこの女性が、まさか……!
「どうした、皇女?単なる年老いた女官だと思っていたのかな?」
大王は呆然とする皇女の姿を楽しそうに眺める。
「失礼を致しました。私はてっきり……」
その様子に、目子は申し訳無さそうに言った。
「少々いたずらが過ぎてしまいましたね。けれど、皇女様の人となり、しっかりと拝見させていただきました。大王、この方には隠さぬ方がよろしいかと」
そう言われ、大王は「ふむ」と呟く。
「皇女、そなた誰か心に決めた男はいるか?」
唐突に訊ねられ、皇女は思わず聞き返していた。
「―――は?」
「だから、心に決めた男はいるのか、と」
皇女はそれはそれは美しい顔を台無しにするほどに、頓狂な顔をした。
意図が、理解出来なかった。
「皇女?」
「……おりませんが」
憮然とした態度で皇女が言うと、大王は安堵の息を漏らした。
「そうか。それは良かった」
「何故良いのですか?もし私が“いる”と答えたのなら、この話は無かったことにしていただけたのですか?」
刺々しく訊ねる皇女に、「当たり前であろう」はっきりと大王は答えた。
「ですが、私が大后にならなければあなたは大王として認められないと……」
「認められないならば、それが私の力量であったということだろう。若い者を犠牲にしてまで、認められようとは思わない」
皇女は訳が分からなくなりそうだった。
混乱しかけている皇女をよそに、大王は続ける。
「もし私が大王として相応しくないというのであれば、私はいつでも三国に帰ろう。その覚悟は出来ているのだ。だが、そなたのように若く美しくこれからのある者を、年寄りに付き合わせるのは忍びない。大連にもそう告げたのだがな」
一つ、溜息をつく。
「だから、皇女。もしそなたに想い人がいるというのなら、遠慮せずに言ってはくれないか。大連は、私から説得しよう」
「皇女様、もし誰かいらっしゃるのでしたら、どうか今ここで」
大王と目子媛は、皇女に詰め寄る。
「おりません」きっぱりと皇女は告げる。
だが―――。
「本当か?」「本当ですか?」
二人は、疑いの眼差しを皇女に向ける。皇女は段々と腹が立ってきた。
自分が覚悟を決めてここまでやってきたというのに、この二人は何なのだ。
想い人はいないと言っているのだから、信じてくれてもいいだろうに。
「ですから、いないと申し上げております」
不機嫌な皇女の声に二人はたじろいだ。
それでも、もう一度確認する。
「本当なのだな?」「本当なのですね?」
何度聞けばいいのだ!
「本当です!」
皇女は思わず立ち上がっていた。
「私は覚悟を決めてここまで来たのです!今さら想い人がいるから、大后にはなれないなどど、泣き言は申しません!!」
ぜーぜーと、皇女は肩で息をつく。
「お分かりに、なっていただけましたか?」
その皇女の気迫に押されたのか、大王と目子媛は無言のまま首を縦に振った。
「では、そのように金村には報告しておきます。失礼します」
皇女は丁寧に一礼すると、そのまま部屋を後にした。
どたどたと、苛立たしげに大きな音を立てて歩く。だが、途中で止まると、肩を揺らして小さく笑い出した。
(あの人たちのあの顔といったら……!)
大王と目子媛の、まるで娘の行く末を心配する親のような表情を思い出し、皇女は笑う。
熊のような風貌をしているのに、あのように人を気遣うなんて。皇女は必死に笑い声を堪えた。
昨日から続いていた皇女の不機嫌は、この時初めておさまったのだった。

<了>



参考文献
「日本書紀(三)」/岩波文庫
「謎の大王 継体天皇」/水谷千秋/文春新書


素材:「ぐらん・ふくや・かふぇ」





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