左から、三番目





北側校舎の三階。
女子トイレの左から三番目の個室に、「彼女」は、いる――。

結城ふたばが中学校に入学した当初から、その噂は女子生徒たちの間でささやかれ続けていた。
誰かと誰かの恋の噂でもするかのように、密やかに、熱をおびて。
その噂がいつからあるのか、ふたばは知らない。
けれど、初めてその噂を耳にした時、ふたばは声をあげて笑ってしまった。
あまりにも、陳腐過ぎて「怪談」にもならない。
今どき、こんな怪談を聞いて怖がる子どももいない。
怪談よりも恐ろしい現実が、日々ニュースや新聞を賑わせているのだから。
だから、ふたばは笑った。
子ども騙しにもならないこんな噂を、中学生にもなってささやき続けている馬鹿らしさに。
大声を上げて、笑った。
――なのに、今。
ふたばは、北側校舎三階の女子トイレ、左から三番目の個室の前に立っている。
血の気が失せて白くなった顔をして、兎のように真っ赤に充血した目をして、立っている。
自分でも、どうしてここに立っているのか分からない。
寝不足の頭で考えてみるが、浮かんでくるのは昨夜必死に覚えた数式と英単語だけだった。
自分でも馬鹿なことをやっているというのは分かっている。
けれど、手は扉を叩き、口は、その言葉を紡いだ。
「花子さん、遊びましょ」
何をやっているのだろう。
受験勉強のし過ぎで、頭がどうにかなってしまったんじゃないだろうか。
誰かに見られたら、何を言われるか分かったものではない。
足早にその場を去ろうとしたふたばの耳に、かたんと、物音が聞こえた。
誰か、いたのだろうか?
振り返ろうとしたふたばは、嬉しそうに呟くその声を聞いた。
「何して、遊ぶ?」
視線の先に立っていたのは、「彼女」。
けれど、その姿はふたばが想像していたものとは、全く違っていた。
そこにいたのは、少年だった。
白いシャツに黒のリボンタイをし、黒の七分丈のパンツをサスペンダーで吊っている。
履いているのは、黒い厚底のブーツだった。
そして――。
大きな鎌を、手にしていた。
ふたばは、唾を飲み込んだ。喉が、ごくりと鳴る。
「あなたが・・・・・・花子さ、ん?」
「そう、呼ばれてるみたいだね」
少年は肩を竦めてみせた。
「名前なんて、僕にとってはどうでも良いことだけど」
そう言って、窓際のスチームの上に腰をかけた。
「それより、何して遊ぼうか?」
少年は、興味深そうにふたばを見つめる。
ふたばは、黒光りする鎌を視界の隅に映すと、眉根に皺を寄せた。
「遊ぶって・・・・・・?」
「もう、嫌だなあ。君から言ったんじゃないか。遊ぼうって。だから、僕出てきたのに」
可愛らしく頬を膨らませながら、少年は言った。
手にしている鎌の刃先が、夕陽に照らされて光る。その度に、ふたばはそちらが気になって仕方が無い。
なぜ、少年は鎌を持っているのだろう。
「ねえ、何が良い?」
問いかけてくる少年に、ふたばは何と答えたものかと言い淀む。
まさか、興味半分で呼びました、などとは言えない。
「もう、仕方無いなあ。僕が決めちゃうよ?良いの?」
決めてくれるならありがたい、と、ふたばはすぐさま首を縦に振った。
「じゃあ、赤と黒と白と青。さあ、どーれ?」
突然の問いに、ふたばは戸惑う。遊びの名前では無く、色を選べといわれるとは、思ってもみなかった。
「・・・・・・青?」
ふたばの答えに、少年は腰かけていたスチームから飛び降りると、鎌の柄で床を二度叩いた。
カンカン、と、小気味良い音が響く。
「青!深い悲しみを湛えたブルー!!」
歌うようにそう言うと、ふたばを見つめて微笑んだ。
「変更は、きかないよ?」
笑みを浮かべているのに、瞳は恐ろしいくらいにじっとこちらを見据えている。
ふたばは、その瞳に促されるかのように頷いた。
「じゃあ、このカッターを手にして」
どこから出してきたのだろうか。少年の手にはカッターナイフが握られていた。
どこか見覚えのある、青いカッターナイフ。
言われるがままに、ふたばはそれを手にした。
「それで、手首を切ってね」
じっとカッターナイフを見つめていたふたばは、驚いて顔を上げた。
少年は、笑みを浮かべている。
笑みを浮かべているのに、何故か恐怖がふたばを襲った。
カッターナイフを両の手で握り締めながら、ふたばは首を横に振る。
「そんなこと、出来ない・・・・・・!」
「出来るよ」
少年は、断言した。
「だって、君は毎晩、腕を切っているもの。手首くらい、簡単でしょ?」


学習机のライトをつけただけの薄暗い自室で、ふたばはカッターナイフの刃先を、左腕に押し当てた。
ひんやりと冷たいそれを、勢い良く横に引く。
一瞬の痛みの後、細く赤い筋が一本、浮かび上がる。
赤く丸い血の玉がぷつりと浮き上がり、細かった筋を、太く変えていく。
血は、ふたばの白い腕に赤い筋をつけながら、ぽたりぽたりと、机の上に落ちる。
赤に染まる腕。
小さな赤い血溜りが、机の上に広がっていく。
それを見つめていると、高ぶっていた神経がゆっくりと静まっていくのを感じた。
ふたばは毎晩毎晩、受験勉強に集中できなくなった頭で、カッターナイフを握る。
数式を解くのに行き詰まり、英文法が暗記出来なくなる度に、苛立つ心を静めるために、カッターナイフを握った。
襲ってくる、胸をかきむしりたくなるような焦りと、胸が押し潰されるのではないかという不安から逃れるために、ふたばはカッターナイフを横に引くのだ。
増えていく腕の傷。
けれど、それを見つめていると、心は平静を取り戻し、解けなかった数式が解け、英文法が暗記できるようになるのだ。
そして、焦りと不安が消えていく。
しかし、翌日になるとまた、どこからか焦りと不安と苛立ちがやってきて、ふたばを苦しめる。
叫び出したい。
叫び出したくてたまらない。
叫び出したい衝動を堪える代わりに、ふたばはカッターナイフを握る。
叫ぶ代わりに、腕に傷をつける。
傷が増えていくのを見ると、安心するのだ。赤い血が、心を落ち着けるのだ。
机の上に広がる血溜りを見つめながら、ふたばは思う。
大丈夫。
私は、まだ大丈夫。
自分に言い聞かせるように、何度も何度も心の中で呟く。
一体「何が」大丈夫なのか、ふたば自身、分からぬままに。


「さあ、切ってみせて?君の白い手首を、真っ赤に染めてみせて」
楽しそうな少年の言葉に、ふたばは首を横に振る。
「いや。嫌!だって、私はまだ大丈夫だもの」
震える手で、カッターナイフを少年に向かって投げつける。
素早くそれを避けると、少年は笑みを浮かべた。
「何が?ねえ、何が大丈夫なの?」
「何が・・・・・・って」
言葉に詰まるふたばに、重ねて少年は尋ねた。
「大丈夫って、何が?ねえ。何が?」
歌うように問いかけてくる少年。けれど、ふたばはそれに答える言葉を持たない。
自分自身、「何が」大丈夫なのか、分かってさえいないのだから。
それでも、答えを探すかのように、ふたばは周囲に視線をめぐらせた。
少年に投げつけたカッターナイフが目に入る。
じっと、ふたばはそれを見つめる。
「大丈夫なんかじゃないよ。君は」
気づかぬうちにふたばの横に来ていた少年は、そうささやいた。
「大丈夫じゃ・・・・・・ない?」
オウムのように、ふたばはその言葉を繰り返す。
足元が、がらがらと音を立てて崩れていくような感覚に襲われる。
そして、押し潰されるような、不安。
鼓動が早くなっていく。
視界が、急速に薄暗くなっていくのを感じた。
体中の力が抜けていく。立っていることが出来ない。
ふたばは、冷たい床に座り込んだ。
それでも、体を支えていることが出来ない。
音が遠い。光が遠い。
世界が、遠のいていく。
ふたばを、焦りが襲う。
早く。早く戻らなくちゃ。早く。早く!
どこに戻るのかなんて、分からなかった。けれど、とにかくどこかに戻りたいと、ふたばは願った。
震える指先で、ふたばは落ちていたカッターナイフを握る。
冷たい刃先を手首に当てると、勢い良く横に引いた。
けれど、そこから赤い血は流れてこなかった。
ふたばは、叫びそうになった。
叫ぶ代わりに、何度も何度もカッターナイフを横に引いた。
けれど、赤い血は、一滴も流れてこなかった。
血が流れなければ、私は大丈夫じゃなくなってしまう。
赤い血を見なければ、元には戻れない。
血を。真っ赤な、血を――。
ふたばは、自分の首にカッターナイフを押し当てた。
大丈夫。私はまだ、大丈夫。これを見れば、元に、戻れる。
カッターナイフを握る手に力を込めた。
瞬間、
「僕の楽しみを、取っちゃ困るよ」
その呟きと共に、首筋に熱い何かが走った。
そして、ふたばの目の前は、一面の赤に染まった。


北側校舎の三階、女子トイレの左から三番目の個室に、「彼女」はいる。
呼び出したが最後、大きな鎌で、首をちょん切られる――。

その噂は今も、女子生徒たちの間で、ささやかれ続けている。


この作品は、大好きな沙クさんのイラストからイメージを受けて、書かせていただきました。
快く作品を書かせて下った沙クさんに感謝しますv

2006年12月11日 沙クさんへ
2006年12月12日 up





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