目薬






「目薬をさすとね、目玉が溶けるのよ」
いつからだったかは知らない。
その言葉は、母の笑顔とともにあった。
恐ろしいまでに綺麗な、微笑とともに。
逆らうことは許されない。
その言葉は、私の中に深く深く浸透した。

侵蝕。

私の中に巣くったその言葉は、私を内側から蝕み始めた。




誰が最初にそれを口にしたかなんて知らない。
それよりも、どうして彼女がその事を知っているのかが不思議だった。
それは秘密。
私と母だけの秘密。
秘密なんて生易しいものではない。

呪縛。

そう。きっとその言葉が一番近い。
不思議そうに彼女を見つめる私に、彼女は口の端だけを吊り上げて笑ってみせた。
「私ね、――と同じ中学だったの」
誰?
きょとんとする私に向かって彼女はなおも続ける。
「――だよ。――。あんたが小学校時代親友だと思ってた。ま、――の方はあんたのこと嫌ってたみたいだけど?だから、あたしにこんなこと教えてくれたんじゃない?」
勝ち誇ったような笑み。
思い出せないような人物に、私の何を聞いたって?
親友?誰?
嫌いな人間は全て記憶から抹消しきっている。
名前を聞いたところで思い出せるわけが無い。
彼女は、苛立たしげに髪を耳にかけた。
「何か言ったら?それとも、ショックで口が聞けないわけ?」
その言葉に呼応するように、周囲にいた何人かが笑った。
笑った?否。嘲った。
嘲笑される理由なんてない。なのに、この人たちはいつもこうだ。
いい加減呆れて言葉も出ない。
無視して教室を出ようとした私の腕を、彼女が掴んだ。
物凄い力で。
「ねえ、試させてよ?」
ゆっくりと動く赤い唇が気持ち悪かった。それと同時に濃い香水の匂いが鼻を掠めた。
握られている腕の不快感。
「離してくれる」
そう言っても、笑みを浮かべるだけ。
「試させてくれたら離してあげてもいいよ」
「あ、何。もしかしてママが待ってるわけ?」
「ママーあたし今日学校で虐められちゃったんですー」
笑い声嘲い声わらいごえワライゴエ。
耳につく。煩い。
何故母親に泣きつかなければならないのか。
あの母親に?冗談じゃない。
きっ、と睨みつけるが効果は全く無い。
彼女は更に顔を寄せてきた。気持ち悪いほどの香水の匂い。
「ねえ、試させてくれるでしょう?」
「あ、じゃああたし押さえてるよ」
「あたしもー」
彼女にいつもくっついている人たちが、手を上げて私の後ろに回りこんだ。
抵抗するが、三人がかりで押さえつけられる。
無理やりに顔を上げさせられると、瞼を思いっきり開かせられた。
眼球が空気に触れる。
瞬きしようにも、無理やりに開かされているので閉じることができない。
眼球に空気が沁みて、次第に涙が溢れてくる。
誰かの爪が瞼に食い込む。視界の隅に映る白い手。
その時になって、突如それは襲い掛かってきた。
言いようの無い恐怖。
手。爪。瞼。目。目。目。眼球。目玉。目玉。目!目!!目!!!
じたばたと、声にならない呻き声を上げながらもがき出す私に、彼女は顔を近づけて嘲った。
「本当なんだ?」
そして、わざとゆっくりとそれを顔の前に持ち上げて見せた。

―――目薬!!

「ああ、ああああああっ」
私は顔をぶんぶんと左右に振る。
彼女はゆっくりと目薬の蓋を外す。まるで恐怖心を煽るかのように。
そして、気持ち悪いほど真っ赤な唇を吊り上げて嘲った。

「本当に、目玉って溶けるのかなー?」




目薬が。
目薬が一滴。
目薬が、一滴私の。
目薬が一滴、私の右目に。
目薬が一滴、私の右目に……!
目薬が、私の目に――――――!!




あああああああああああああああああああああああああああああっ。
嫌あっ。嫌っ。嫌あ!!
溶ける。溶ける!溶けてしまう!!
目玉が。
私の右目が。
私の右目が!!
溢れ出る粘膜。頬を伝う生温かいもの。
リノリウムの床にはきっと、白と黒が混ざり合ったものが広がっているのだ。
私の右目だったものが。
私の、私の右目がっ。
右目。右目っ。私の、私の右目!!!
暴れだす私に、彼女たちは押さえていた腕を離した。
その拍子に、瞼が爪で引っかかれる。
私は慌てて右目を覆った。
がたんと、誰かが机にぶつかったのか大きな音を立てた。
その音が、私に冷静さを取り戻させた。
私は、右目を押さえたままで、そちらを見た。
彼女が。
私に目薬をさした彼女が、唇を歪ませていた。
私の顔を見て、「ひっ」と声にならない声をあげる。
気持ち悪いほど真っ赤な唇が戦慄いている。
私は、床を見る。
そうしてから、ゆっくりと顔を上げた。
彼女は怯えた様子で後ずさっている。がたんがたんっと机や椅子にぶつかりながら。
足が縺れて上手く歩けないのか、終いには床に手を着いていた。
私は、ゆっくりと右目を覆っていた手を外した。
そして、彼女に向かって嘲った。彼女の真似をするように、唇の端だけを吊り上げて。
嘲ってみせた。
「ああ、あああ」
震える彼女に、一歩、二歩と近づく。
顔の前まで近づいて。
彼女の濃い香水が鼻につくくらいまでに近づいて。
恐怖に引き攣る彼女の顔を見ながら、嘲って言った。
「あなたの、所為でしょう?」
教室に響くその声にならない悲鳴が、何故だかとても心地良かった。




誰もいなくなった教室で、私はそれを見つめる。
リノリウムの床に広がる、黒と白の混ざり合った粘液。
左目だけでそれを見る。
私の、かつての右目を。
溶けてしまった右目を。
何故だかとても冷静な気持ちだった。
すっと目の前が開けていくような感覚。
視界は狭まってしまったと言うのに。
何故あんなにも恐れていたのだろう。
そんなにも怯えることだっただろうか。
結局は囚われていたのだ。母の言葉に。
母の、呪縛に。
失った右目。代わりに得たのは解放感?
床に転がっていた目薬。
私はそれを拾い上げる。
もう、怖くは無い。
けれど左目が存在し続ける以上、私はまたあの恐怖を味わうのだろうか。
目を開くたびにあの恐怖を?
私は頭を振った。
ならば、左目も。
左目も、溶かしてしまおうか―――。

<了>



久しぶりの黒系でございます。黒というか、今回はグロ?……グロですね。
私は実は高校3年まで目薬を一人でさせませんでした。怖かったんです。目薬の容器の先端が目に刺さるんじゃないかと思って。
母親にさしてもらってました(汗)コンタクトにしたのをきっかけに自分でさせるようになったのですが。
そんなところからこの話が出来ました。
そもそも、目薬を「さす」って表現が悪いんじゃないですかね。「さす」って「刺す」を連想させるじゃないですか。それで怖かったんじゃないかと今では思います。
後は、幼い頃に母親から言われた事って、ずっと長いこと自分の中に根付くよな、と。一種の呪縛というか。信じ込んでしまうと言うか。
ある種の少女の自立の話だと思ってますが、いかがでしたでしょうか。裏テーマは「母親からの解放」ですかね(笑)
感想などございましたら一言でも構いませんので茶話室までお寄せ下さいm(__)m

2004.08.29
素材:「LEBELLION」






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