黒い箱
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夜の川は暗くて、聞こえてくるのはごうごうという唸るような音だけだ。
橋の下を眺めてみても、あるのは深い闇ばかりで昼間のように川の流れを見ることは出来ない。 街灯が点っているというのに、その光を反射することもなく、川はただごうごうと唸る音を響かせ続けている。 その音はまるで、川自体が発しているのではなく、闇の奥深くから何者かが唸り声を上げているかのように少年には感じられた。 この闇に吸い込まれるようにここから落ちたら、あるのは本当に冷たい水なのだろうか。 少年はふとそんな事を考える。 落ちた瞬間、身体に触れるのは冷たい水などではなく、どろりとした生温かいものなのではないだろうか。以前にここで死んだ人間の魂が澱みとなり、自分の身体を撫で回すのではないだろうか。助けを求めようと開いた口さえもその澱みに塞がれ、体はずぶずぶと闇の中へと沈んでいくのではないだろうか。 その情景を思い浮かべて、思わず少年は身震いした。 足元にあった小石を掴み、川に向かって放り投げる。少し遅れて、ぱしゃんっという音が聞こえてきた。 その音に少年はほっと胸を撫で下ろした。確かにこの下には、冷たい水の流れる川があるようだ。 長い間暗い川を見つめていた所為で、闇が少年の妄想を掻き立てたのだろうか。 これ以上ここにいては更に妄想に捕われてしまうような気がして、軽く頭を振ると歩き出した。 腕時計を見ると、いつもなら既に帰宅している時間から一時間近くも経っていた。 母親は心配しているだろうか。 そう思い、ふっと口の端で笑った。 母親が心配しているのは、模試の結果だけだ。玄関の戸を開けるなり、「模試はどうだったの?」と尋ねることだろう。 こちらが模試の結果が悪くてここで立ち往生していることも知らずに。明るい声で聞くのだろう。けれど、瞳は決して笑っていないのだ。 その姿を想像するだけで、踏み出す足は重さを増す。 もう一度、橋からあの闇を眺めていようか。 そう思い立ち止まりかけたところで声をかけられた。 「すみません」 その声に顔を上げると、目の前にに一人の女性が立っていた。 いつから立っていたのだろうか。 そこに女性がいたことに全く気づいていなかった少年は、女性の姿が眼前にあることに驚いた。 上から下まで黒い服を身に着けている所為か、肌の白さが際立っていた。顔と手だけがぼうっと闇の中に浮かんでいるかのように見えた。 驚いている少年をよそに、女性は口を開く。 「すみません。宜しければ、この箱を預かっていただけませんか?」 そう言われて女性の方を見ると、女性は大事そうに黒い箱を抱えていた。 新手の商売だろうかと不審に思い、その場を足早に去ろうとする。 しかし女性の腕が素早く動き、がっちりと少年の服の裾を掴んでいた。赤く塗られた爪が、少年の腕に食い込む。痛みで顔をしかめるが、女性は腕を離してはくれなかった。 「一週間で構いません。預かっていただけませんか?」 戸惑う少年に、女性は笑みを浮かべて見せた。 その笑みが歪んで見え、少年は背筋が冷たくなるのを感じた。 「ただでとは申しません。一週間預かっていただけましたら、百万円お支払いさせていただきますわ」 提示された額に、少年は目を丸くさせる。一瞬、聞き間違いかと思ったほどだ。 女性は、はっきりともう一度言った。 「百万円、きっちりと現金でお支払いさせていただきますわ。但し、この箱を開けてはいけません。それさえ守って下されば、何処に置いておこうが構いません。一週間預かってくだされば良いのです。どうかしら?」 一週間、箱を預かるだけで百万円が貰える。 少年は魅力的なその条件に心がぐらつくのを感じた。けれど、旨い話には裏があるという。女性に対する不審感は拭えない。 少年のその気持ちを感じ取ったのか、 「では、前金で五十万円先にお支払いいたしますわ。一週間後、ここに箱を持ってきてくだされば、残りの五十万円をお支払いいたします。いかが?」 女性は鞄から厚みのある茶封筒を取り出すと、少年の手に握らせた。 その封筒の重みが、少年の首を縦に振らせた。 「よろしくお願いいたしますわ。くれぐれも、箱を開けてはなりません」 その一言を残して、女性は少年の前から姿を消した。 少年は渡された黒い箱を、じっと見つめていた。 家に帰ると案の定、母親が玄関先で待ち構えていた。模試の結果はどうだったのかと尋ねる母親を振り切って、少年は足早に自室へと向かった。 自室の扉の鍵を閉めると、机の上に黒い箱を置き息をついた。 鞄から五十万円の入った茶封筒を取り出す。 それを見て、改めて先ほどの出来事が夢では無かったのだと思った。 少年は封筒から一万円札を二、三枚抜き出すと机の一番上の引き出しに封筒をしまった。鍵をかけ、二度ほど引き出しが閉まっているかを確認した。 引き出しの鍵と一万円札を財布にしまうと、そのままベッドの上に仰向けに倒れこんだ。 精神的に疲れた一日だった所為か、すぐに睡魔が襲ってきた。 風呂にも入らず、着替えも済ませてはいなかったが、少年はその睡魔に身を委ねることにした。 目を閉じる少し前に、机の上の箱ががたがたと動くのが視界に入ったような気がしたが、眠る前から夢が見られるなんて、自分はなんて器用なのだろうかと少年は思い、そのまま目を閉じたのだった。 翌朝目覚めると、黒い箱は床の上に転がっていた。 おかしいなと首をかしげながらも、少年は箱を机の上に戻した。 引き出しに鍵がかかっていることを確認すると、鞄を持って部屋を出た。 瞬間、ごうごうと唸るような音を聞いたような気がして振り返るが、どこからもそんな音は聞こえてこなかった。 それから三日は何事も無く過ぎた。 机の上に置いたはずの黒い箱が、床の上に転がっているということは何度かあったが、それ以外は何事も無かった。 これで先に五十万円を貰ってしまっていいのだろうかと思いながらも、封筒の中の一万円札は二枚、三枚と確実に減っていった。 その日、塾から帰るとやはり箱は床の上に転がっていた。 溜息をつきつつ、箱を拾い上げる。不意に気にかかって箱の底を触るが、でこぼこしているということも無い。バランスが悪いわけでは無いようだ。 箱を机の上に戻してから、何故こうも毎日箱は床の上に転がっているのだろうかと首を傾げる。 まさか夜の間に動いているとでも言うのだろうか。 そんなことを考え、少年は鼻で笑う。そんなことがあるわけが無い。 ちらりと、もう一度机の上の箱に目をやった。 先ほどの考えが影響しているのか、何だか気味が悪く見えた。 「まさか、な。そんなこと、あるはずがない」 口に出して確認しないと、箱が動くのだと本当に信じてしまいそうだった。 その夜、少年は夜更けに目を覚ました。 夢の中でずっと、ごうごうと唸るような音を聞いていたような気がしていた。 水でも飲もうかとベッドから抜け出すと、机の上の黒い箱に目がいった。 床に落ちていなかったことに、少年は安堵した。 しかし、そう思ったのも束の間、どこからか夢の中で聞いたごうごうと唸るような音が聞こえてきた。 ごうごう、ごうごうと闇の中を流れる川のような音が聞こえてくる。 少年は恐る恐る机の上の黒い箱へと近づいた。すると、それまで聞こえいた音が止んだ。 瞬間、箱はがたがたと全体を震わせるかのように動き出した。 少年は咄嗟に箱を押さえにかかった。しかし、箱は少年の手を振り払うかのように、先ほどよりも大きく動き始めた。 少年は必死で箱を押さえつける。 箱からは、少年が押さえつけていることに対する抗議をするかのように、ごうごうと唸る音が聞こえてきた。 思わず、少年は箱から手を離した。 押さえつけていた反動なのか、箱は一度大きく机の上で飛び上がると、そのまま床の上へと落下した。 そして、一度だけ全体をがたがたと震わせると、そのままぴたりと動かなくなった。 唸るような音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。 床の上にへたり込む少年の背中を、冷たい汗が一筋流れた。 少年はその日から眠ることが出来なくなった。 いつ箱が動き出すのか。いつ唸り出すのか。 それが恐ろしくて、ベッドに入るものの目を瞑ることが出来なかった。目を瞑ったら最後、黒い箱が自分を襲ってくるのではないか。 そう思うと、眠りにつくことが出来なかった。 箱は、毎晩夜更けになるとがたがたと震えるように動き出した。 しばらくするとごうごうと唸るような音が聞こえてきた。そして、床の上へと転がり落ちる。 転がり落ちた後にぴたりと動きを止める時もあれば、何度か震えるように動いてから動きを止めることもあった。 その度に少年は、箱がそこから更に自分に近づいてこないように毛布の中で祈っていた。 明日でとうとう一週間目という夜に、それは起こった。 いつものように、毛布の中で早く朝が来ることを祈っていた少年の耳に、それは聞こえてきた。 ごうごうと、闇の中を流れる川のような音に混じって、誰かが何かを叫んでいるような声が聞こえてきた。 少年は音が聞こえないように更に毛布の中に潜ったが、次第にそれははっきりと聞こえるようになった。 ごうごうという唸るような音が小さくなっていくにつれ、その声は明確になっていく。どうやら、男の声のようだ。 声は、「助けてくれ」と叫んでいた。 「助けてくれ!助けてくれ!!」 叫び声が上がるのと同時に、箱はがたがたと音を立てながら動く。 少年は恐る恐る黒い箱に近づいていった。 少年が近づいていくと、叫び声は大きさを増した。 叫び声は、箱の中から聞こえてきたのだ。 少年は息を呑む。 まさか。そんな。 ぐるぐると、そんな言葉だけが脳裏を駆け巡った。 「助けてくれ!助けて……!!」 悲鳴のような叫びは、なおも聞こえ続けている。 少年は蓋を開けようと箱に手をかけて、はっとした。 「くれぐれも、箱を開けてはなりません」 女性の言葉を思い出し、少年は手を止める。 何故、あの時女性はそんなことを言ったのだろうか。 少年は冷静さを取り戻していく頭で考えた。 本当にこの中に人間がいるのだろうか?こんな、人が抱えきれる大きさの箱に? 入っているわけが無い。 あの女性は、自分がこうして怖がるのを想像して楽しんでいるに違いない。 きっとこの中にはランダムに再生されるレコーダーか何かが入っているのだ。そして、それに合わせて箱が動くような仕組みになっているに違いない。 五十万円も払って自分をこんな目に遭わせて何の利益があるのかは分からないが、きっとそうに違いない。 少年はそう思った。そう思うと、今までこんな黒い箱一つに怯えていた自分が馬鹿みたいに感じられ、同時に女性に対して腹が立ってきた。 あまりにも悪趣味すぎる。 この数日感じていた恐怖と眠れない日々が、全くの無駄だったなんて。 五十万円を貰ったからと言って、割に合わないような気がした。 少年は、叫び声が聞こえ続けている箱の蓋に、怒りにまかせて徐に手をかけた。 そして―――。 次の瞬間、少年の視界を支配したのは漆黒の闇だった。 少年は訳が分からず周囲を見回す。しかし、あるのは闇だけで何も見えない。 手探りで部屋の外へと出ようとするが、いつまで経っても壁が続いているだけだった。ドアノブのあるだろうと思われる位置に手を伸ばすが、ドアノブに手がかかることは無かった。 一体何が起こったというのだろうか。 少年は焦り出す。 闇に慣れてきた目が映し出す現実を、認めたくは無かった。 少年がいるそこは、二畳ほどの広さしかなく、四方八方全てが壁で塞がれていたのだった。 部屋の外から、声が聞こえてきた。 「開けてくれて、助かったよ」 その声は、先ほど箱の中から聞こえてきた声と同じものだった。 瞬時に、少年は自分が箱の中へと入ってしまったことを悟った。 出して欲しくて真っ暗な箱の中で暴れ出す。懸命に壁に自分の身体を叩きつけた。 しかし、箱の蓋が開くことはない。 「助けて!」 叫んだはずの声は、言葉として形にならず、ごうごうと唸るような音が耳に届くだけだ。 箱の外からは、何かを物色するような音が絶え間なく聞こえてきていた。 まだ箱から出た男がいることを願って、少年は叫び続ける。 男はこの中に少年がいることを知っているはずなのに、何も答えようとはしない。 物色していた音が止んだかと思うと、 「悪く思わないでくれよ。俺だって、もう二度とそこには戻りたくないんだ」 そう男が告げると、辺りは静かになった。部屋を出て行ったのだろう。 部屋には誰もいない。 それでも、少年は叫び続けた。身体を壁に叩きつけ続けた。 その度に、箱はがたがたと震えるように動き、川の流れるようなごうごうという音を響かせ続けるのだった。 <了> 「●にも奇妙な物語」風。思いの外長くなってしまった気がします。もう少しすっきり表現しても良かったような良くなかったような。 すみません。ちょっと自分でも迷いつつのアップだったりします(汗) 一応ホラーなんでしょうか?相変わらずジャンル分けが良く分かりませんが。落ちが弱いような気もいたします。嗚呼。 こんな話を書きたくなったのは、ずっと『ばんぱいあ×ぱにっく!!』を書いていた反動だったりします。やっぱり暗い話もたまには書かないとダメなんですねえ。 2005.05.13up
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