堪忍袋の飽和。




ある朝のこと。
「由香、ゆかー!!早く起きなさい!!」
由香は母親の大声で目が覚めた。正確に言うと、十分前から意識はあった。十分も布団の中で転がっていたのだが、布団から抜け出せず十一分目を更新しつつあった。
「由香、七時半!!」
台所から廊下、階段の下からドアを看破して声が響いてくる。由香は寝ぼけまなこで枕にアゴを乗せた。寝坊避けに十分進めた時計は七時四十分を差している。これがいけない。
「遅刻するわよ!!」
そう言われても実際、学校に遅刻したことはない。結局はギリギリのところで間に合う。言葉だけの脅しには慣れっこだ。
「もう起こさないからね!!」
これでようやく母親の脅しは終わりを迎える。いつもの言い回しを聞き終え、由香はウト、と目を閉じた。あと一分。あと一分したら慌てて起きて着替えて台所に降りる。
いつもの計画を立てた途端、またぞろ怒った声が聞こえてきた。
「いい加減に起きなさい、由香!!!」
ビクッとして身を起こす。いつもとは違う母親の粘りに驚く。いつもなら「もう〜」で終わるはずなのに、今日は違う。このしつこさは一体。
「なんで時間通りに起きないの!!ちゃんと行動して!!」
今にも階段を駆け上がってきそうな勢いに身が強張る。これは大変だ、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
布団から上半身を乗り出し、枕を跳ね飛ばして起き上がる。それでも母親の怒りは収まらない。由香が階段を降りてくるまで止まらない。
「起きろったら起きなさい!!起きないと、」
ブヅン!!!
凄まじい音が聞こえた。一般の家庭内では聞くことのない重い音。由香は床の上で竦む。(シャレではない。)
敢えて例えるなら、ゴムの塊を引き千切ったような、池に岩を投げ込んだ時の水音のような、何かとんでもない物が半ばからブツ切りにしたような音。聞いたことのない物音が家を揺るがした。
由香は慌てて部屋を飛び出し階段を駆け下りる。が、それも最初の二段で止まった。
「おっ、お母さん!!?」
さっきまで勢いよく怒鳴っていた母親が階段の下で倒れている。あまりにも突然の出来事。
「どうしたの!?」
転がるようにして階段を降り、母親の傍に駆け寄る。床に投げ出された腕はピクリとも動かず、呼んでも答えない。
もしや、頭に血が上りすぎて倒れてしまったのか・・・・揺さぶろうとして咄嗟に思いとどまる。だとしたらムリに動かしては危うい。中途半端な知識が由香の手を止めた。
「病院!!救急車ー!!」
電話に飛び付き、受話器を外すのももどかしく番号を押す。この際110でも119でも構わない。
「おはようございます、待ちなさい!!」
次の瞬間、目の前で玄関のドアが開いた。バーンと蝶番が吹っ飛びそうな開閉。唐突な来客に、由香は1を押したところで硬直した。自分の知る限り、朝の七時半から来る人間は知らない。
「それは病院の管轄でも警察の管轄でもありません。私達の管轄です」
「誰!!?」
誰というよりも何様かと。いきなり現れたこの男は、一体何様。
「何様、じゃなくて、どちら様!?」
「様というほどの者ではありませんが、あやしい者ではありません。公的機関です。オフィシャルな団体です」
オフィシャルでもプライベートでもなんでもいいが、由香にとっては見知らぬ者の他なんでもない。あやしくないかどうかは問題でない。
「ここは私に任せてもらいましょう。お邪魔します」
見知らぬ男は靴を脱ぐといきなり上がりこんできた。任せてくれと言われても。
「なんですか、なんなんですか!!?」
「待ちなさいと言ったでしょう」
続けて19を押そうとした電話を切られる。手際のよさに唖然とする。
「申し遅れました。私はこういう者です」
擦れ違い様に名刺を渡される。唖然としたままカードを見ると肩書きは長かったが、名前の行が短い。
「保健所、健康管理課、メンテナンス業務主任・・・・あぶぶ?」
阿武あぶたけしです」
さすがに「あぶぶ」はなかった。真面目に訂正されるとこっちが気まずくなる。由香はようやく読み仮名に気が付く。阿武と名乗る男は床に膝をつきながら細くする。
「正確に申し上げると精神衛生、精神保健に寄ります」
「精神衛生課・・・・?ちょっと、何してんの!?早く病院病院!!」
てっきり母親を介抱するのかと思いきや、阿武はまったく別の床を何やら探し回っている。受話器を放り出し相手を突き飛ばす。
「ちょっと、何するんですか」
「何するんですかはこっちのセリフよ!!消防呼ぶわよ!?」
「そんな大掛かりな」
「こっちはおおごとなのよッ!!そんなとこ這いずり回って何しようっていうの!?」
「これです」
床に手を付いた阿武は居住まいを正し、近くから何かを拾い上げる。
「それは・・・・なに?」
「初めて見ますか」
阿武が取り上げた何かは二つあった。指で輪っかを作った程度の太さで、よく見ると荒縄だ。それを左右の両手に持つ。
由香はポカンとした。そんなもの、一般家庭の床に転がっているワケがない。ホームセンターでも今時あまり見ない類。しかも二つは元々一つのもので、端が千切れた断面になっている。くっつけるとピッタリ合う。なぜそれが?
「なんでそんなものが。なにそれ?ロープ?」
「堪忍袋の緒です」
「かんにん・・・・」
またもや冷静に訂正され、由香は言葉を失う。そんな言葉だけのシロモノを今、目の当たりにしようとは。
「人には皆、それぞれの許容というものがあります。懐の広さですね」
「そ、それが?」
「それが堪忍袋という名であり、その許容量を単位でハッキリ表すことは難しいですが、その限度を超えた時に堪忍袋が破裂してしまうことがあります。その時に初めて現れるものがこの、堪忍袋の緒です」
「カンニング・・・・堪忍袋の緒・・・・それが、これ?」
「そうです。あなたのお母さんの堪忍袋の緒が、これです。分かりますか?」
「わ、分からない」
「実際には理解し難いでしょうね、そうでしょうね。まずはこれが一番の現物証拠ということですからよく見て下さい」
淡々と説明されるが、由香はまったく理解していなかった。非現実すぎる。
「ずいぶんと立派な堪忍袋の緒ですね。よほどの許容を誇るレベルですが、今朝とうとう切れてしまったようです。ものすごい音がしたでしょう?」
「した。ブツンッ!!って、言った」
「密度もすごいです。これが切れるとあれば、よほどガマンならない引き金に見舞われたようで。外界からのストレスと内面に溜め込んだガマンならない感情が徐々に蓄積され、ここまで鍛えられたんですね。これが切れるほどです、引き金の心当たりは?」
確かに心当たりはあった。しかしあまりにも都合の悪い引き金に、由香は黙ってしまった。まさか、娘の寝坊を怒った瞬間に切れてしまったとは。
何も答えない由香を見て、阿武は得たりといわんばかりに頷いて見せた。
「分かりました。どんなに小さな引き金だろうと、これまで蓄積された堪忍袋の中身が飽和を迎えた瞬間、それは大きな破裂を引き起こします。寝癖すごいですよ」
「あぶー!!」
由香は思わず叫んで頭を押さえた。寝起きのまま玄関に飛び出してきたので、何もかもひどいままだった。その様子に阿武はすべてを悟っていた。
「私達は一般公衆の精神面をカバーする役目を担っています。心のケアですね。あなたも寝癖のケアをした方がいいですよ」
「あんた、ドライヤーで殴るわよ」
「やめて下さい。ともかくこの切れた堪忍袋の緒を治し、元に戻さなくてなりません。破裂した堪忍袋を早期発見し、堪忍袋の緒のメンテナンスを請け負うのが私達です。昨日からこのお宅危ないと睨んでいて正解でした」
「どこから見てたの」
「深夜から張り込んでました」
とりあえずドライヤーで殴ろうと洗面所に向かう。公的職務の越権行為とか言う前に犯罪行為である。
「ドライヤーで殴るのは待って下さい。お母さんをこのままにしておくのは非常に危険です」
「そ、そうよね・・・・早く堪忍袋の緒を治して!!」
自分でもものすごいおかしいことを言っている自覚はあったが、四の五の言っている場合ではない。阿武は頷いた。
「では処置を始めましょう。メスを!!」
「刃物を!!?ちょ、ちょ、ちょっと待ってて!」
切れたものを元に戻すと言う割には割に合っていない。しかし切れたアキレス腱だって繋げる時にはメスを使う。由香は慌てて刃物か何かを探しに走る。
刃物、切れるものと言えばハサミかカッターか包丁くらいしかない。台所の引き出しから調理バサミを見つけ、急いで階段下に取って返す。
「はい、ハサミ!!」
「あ、もう終わりました」
「なんだそれー!!?人にメス持ってこいって言っといて!!」
パジャマのまま調理バサミを構え由香は叫んだ。早朝から有り得ない姿である。一方、阿武はすでに処置を終えていた。なんだそれ。
「そんなもんでいいの!?」
「いいんですよ」
そんなものと言うと、二つに切れた太い荒縄に針金を括り付け、ボンレスハムのような形で一つにまとめている。そんなものだが、確かに治っている。
「じゃあ、さっきのメスって!!?」
「そのハサミはお借りしますよ?針金の余った端を切り落とすために使うので」
「メスで切れるか針金!!最初からペンチとか言ってよ!!なにこのムダ作業!?」
思い余って振り上げた調理バサミを取り上げられる。カニの殻を割る硬い部分で針金の端っこを切り落とす阿武。細いワイヤーはパチンと鳴り、いとも簡単に切断された。
「はい、これで治りました。じきにお母さんも気が付くでしょう」
「それでいいんだ・・・・」
「よいのです」
再び一本に繋がった堪忍袋の緒は、母親のエプロンのポケットに返される。ていうか、そんなところにしまっておくのか。
「では私はこれにて失礼します。メンテナンス業務は終了しました」
「あのー、ホントにこれで元に戻るんですか?」
「現物を目の前にしても信じられないでしょう。疑う気持ちは分かります」
むしろ疑う気持ちしか有り得ない。由香の不安を宥めるように阿武は「まあまあ」と両手でジェスチャーする。
「非現実だとお思いでしょう。しかしこれが現実です。あなたのものすごい寝癖も現実です」
「黙れ公僕。でも、もしもまたお母さんの堪忍袋の尾が切れたら、どうすれば!?」
「大丈夫です。このワイヤー、見た目より強度は十分です。百人乗っても大丈夫」
「百人に綱渡りさせる気か!!」
「象を一頭吊り上げても切れません。堪忍袋の緒は最初の強度よりも遥かに丈夫になりました。滅多なことでは切れませんよ」
象の重さ単位で保障されても困るが。由香はホッと胸を撫で下ろす。が、阿武はさらに言い加えた。
「そうは言いましても、根本的な解決には至らないのです。分かりますね?」
真剣な口調で言われ、思い当たる。
自分の積み重ねてきたわがままの結果、母親に余計な心労を与えてしまったのだ。堪忍袋の緒にかかる負荷は、自分の行いで増大するし軽減もされる。結局は由香が自分を戒めるしかない。阿武はそのことを指摘している。
「分かりました。すいません。今度から気を付けます・・・・」
「分かって頂けて幸いです。堪忍袋の緒のメンテナンスは私達でできますが、その予防は周囲で防げます。怠らなければこのような非常事態に繋がることもないのです」
「十分反省しています、どうもありがとうございました。今度からできるだけ寝坊はしません」
ありきたりの小言ではあるが、由香は素直に頭を下げた。相手の言い分は正論に違いない。
「その精神をお忘れなく。ご家族の協力あってこその私達です。あと、寝坊だけではなくて寝癖も直した方がいいですよ」
「黙れアブブ。保健所に訴える!!」
「やめて下さい。あと、寝坊と寝癖だけではなくて部屋もたまには掃除機をかけたほうがいいですよ。絨毯に無数の抜け毛とハウスダストが」
「だからいつから見てたの!!?」
「正確には一ヶ月前からですが。あの部屋はいたたまれません、他人から見ても」
やっぱりドライヤーで殴ろうと洗面所に向かったが、阿武はすでに玄関から出て行った後だった。後の祭り。
「あら・・・・起きたの?」
追いかけようとした矢先、背後で母親の声が聞こえた。急いで階段下に引き返す。
「お母さん大丈夫!?」
「大丈夫も何も、どうかしたの?」
「堪忍袋の緒は!?」
「堪忍袋?」
わけが分からない様子で逆に問い返される。阿武の処置はウソではなかった。二度ホッとする。
「そう言えば、由香」
身を起こした母親は台所の時計を見上げ、ギクッとした顔で今度は由香を睨む。
「もう八時じゃないの!!一体なにしてたの!?早く学校行きなさい、遅刻よ遅刻!!だから早く起きろっていつも言ってるじゃないのこのバカ!!着替えもしないで遊んでるんじゃないの!!」
「お、お母さん、抑えて。堪忍袋の緒が切れる」
「なに言ってんの!!そんなもの毎朝切れてるわよ!!とっくに百回は切れたわよ!」
「す、すいません」
こうして寄り集まった細い縄があの太い荒縄になったのかと思うと、由香は、百人乗っても大丈夫な針金が再び切れる日は近いのではないかと恐怖した。確実に切れる。ワイヤーが切れても堪忍袋の緒は持ち堪えるんじゃないだろうか。
しかし、そうすると、またあの阿武が一ヶ月前から張り込むのでは。いろいろチェックされるのでは。抜け毛とか。
「き、キレる・・・・!!」


由香は自分のアレが切れそうな音を聞いた。





おしまい。

佐藤アオイさんから携帯サイトの2万打記念で頂きました!
凄い嬉しいっす!ありがとーvv
お母さんの堪忍袋の緒の荒縄の如く、太く長くサイトを続けろと言う意味が含まれていると受け取りましたよ!(笑)うーん、自分の堪忍袋の緒は、結構細く短いかもしれないなあと思いました。
メンテナンスシリーズの続編希望!(と、ここで言うな)


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